エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 変な先生の変な授業が問いを生んだという話。 2022年2月2日

昨日のエッセイで学生時代のことを書いたらついでに思い出したことがある。今思うと、変な先生がいっぱいいた学校だったんだよ。当時はそれが良いと思ってたわけじゃなくて、どちらかというと面倒くさい印象だったんだけどさ。

まず、国語の先生だ。古文だったか現国だったか忘れちゃった。

この先生がまた、変わっててさ。もじゃもじゃ頭にメガネで、ひょろひょろっとしていて、渋いジャケパンスタイルでサイズはちょっとオーバーサイズに羽織って、スリッパをまるで雪駄か下駄でも履いているかのような風体で歩いてやってくる。大正時代のファッションなんかさせたらぴったりハマりそうだ。

授業に持ってくるものは、教科書のみ。指先でつまんでプラプラと歩いて登場したと思ったら、おもむろに教団に椅子を持ってきてダラっと座るんだ。たぶん始業の挨拶なんかも適当だった気がする。しなかったかも。

さあ、授業の開始だ。

「えーと、今日はどこだったかな。」「先生、○○ページです」「じゃ、今日は太宰やるよ。じゃあ、だれかちょっと読んでくれる?」

しばらくすると

「ちょっと待って。これおかしくないか?」「??」「だってさ。さっきまで主人公はこんなこと言ってたんだよね。じゃあ、なんで次のページでこうなっちゃうわけ?うーん。どういうことだろうなあ」

と、独り言が始まるのだ。別に誰を指名するわけでもない。

「漢字の使い方が変わってるよなあ。本来、日本語ではこんな用例は見当たらないはずなんだよ。ほら、こういう言い回しするじゃんか。だから、これ変だよね。どういう意図で使ってるんだろうな。」

もうただただ、独り言。絶対に試験で使われないだろうポイントなんだけど、興味の赴くままに教科書にツッコミを入れまくるのよ。

今思うと、教科書に書いてあることを鵜呑みにするなよ、むしろ自ら問いを立てることをしろよ、というメッセージだったんじゃないかな。それも全部演出で。

だってさ。問いの回答を生徒に一切求めないんだよ。勝手に考えさせる。しかも、正解の提示なんて絶対にしない。先生自身が解に至ったときだけ「あぁそうか。さっきのはこういう意味だったかもしれんなあ。君らはどう思う?」って投げっぱなしの問いを投げかけるだけ。

先生自身がしっくり来ていないときだけ、「なあ武藤はどう思う?」「そうか。そういう見方もあるかもなあ。じゃあ次読んで。」というくらい。

当時は、なんてひどい授業だと思ったよ。特に始めの頃はどう接していいかわけが分からなくてさ。慣れてきたら面白くなって、ひたすら教科書の文章を「フカヨミ」するようになってた。予習するわけでもなくて、とにかく授業中は、教科書に載っている「文章をフカヨミして楽しむ」ことに集中してたかも。

「これホントかよ。」「そんなことあるかなあ。」「だって変じゃない?」

今でも先生の口癖が思い出せるくらいだ。

これって、今めちゃくちゃ大切な姿勢だってことがよくわかる。

自分の持ってる固定概念や、世の中の常識だと思われていることを、そのまま受け取るんじゃなくてちゃんと自分の頭で理解しようとすること。そのために「問い」の練習になったし、お手本を見せてくれていたような気がするんだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。授業内容は相変わらず抜けちゃっているけれど、考え方とか姿勢はちゃんと覚えてるもんだなあ。いまの「たべものラジオ」の姿勢は、この先生の影響があるかもよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

-エッセイみたいなもの
-, , , ,