エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「書く」を続けてみて感じたこと。 2022年2月9日

近頃のエッセイは、思想思索の話が多いよね。良いのかな。

自分が読みたいと思うことを書いているだけだから、変えないけどさ。

去年の1月から、なんだかんだとずーっと毎日エッセイを書いているんだけどね。これが、意外と良いのよ。集客のためにとか、ブログを作って収益化しようとか、そういうのとは全く無縁の状況で始めたのね。そんなふわっと始めた割に、よくもまあ続いているなあと自分でも感心するよ。

ふわっと始めたもんだから、読み手のことなんか何にも考えてないもん。ごめんなさい。ただの日記だね。意識するとしたら、子どもたちがこのエッセイの存在に気がついた時に読んでくれたらどう感じるかなってくらい。

そもそも、誰も読んでいないんじゃないかって思いながら書いているんだよ。

なんだろうね。

この状態が「良いなあ」と思っているのが、自分ですごく不思議なんだ。

これは一体、どういうことなんだろう。だれか分析してくれる?といっても、これも独り言なのだ。しょうがないから、自己解析といこうかね。

エッセイを書いていて、時々ハッとすることがある。書きながら思いついたことをダラダラと書いているから、結論なんかも定まっていない。こういうことを書くために、どういう展開が良いかなんてことも一切無視してる。

そうするとね。思いもよらない所に着地するんだ。書いている途中で気がつくこともあるし、最後の1段落までたどり着いてから何かが生まれることもある。

これは一種の瞑想なのでは?

黙々と一つのテーマについて考えていくとして、脳内だけでは出来ないがある。思考がとっちらかって、絡まってしまって整理が出来ないような感覚。よほど集中しないといけない。とにかく熟考ということもやるにはやるのだけど、けっこう体力使うんだよね。

ところが、このエッセイだとあんまり体力を使っている感覚がないんだ。不思議。視覚化出来ているから、整理しようとしなくて良いのが楽なのかな。

文章だと、並列処理がしづらいってのも良いかもね。ひとつのルートをたどり始めたら、パラレルワールドのことを同時に書き出せないもん。脳内のイメージって、思考のルートが同時に複数走り出すからさ。

あと、タイピング速度の限界がある。どうやっても、どんなに訓練してもしゃべる速度より早くならないし、思考の速度を超えることはない。だから、比較的一つのことに集中して思考ができるのかもしれないなあ。

こんなに毎日タイピングしているのに、平気でタイプミスするんだよ。困ったもんだ。そのたびに思考が妨害されるじゃないか。もう。

とにかく、思考が整理されるってのは良いよね。あと、今までぼんやり思っていたことの輪郭がはっきりしたり、ちょっと深いところまでいったりする。普段の生活の中でも、少しばかり思考様式が変わったのじゃないかと思っているよ。

そういえば、毎日書くルールは自分が自分のために書くエッセイに課したものだ。なんの罰則もないのだけど、なんとなくやめないでいる。

この縛りがあると、ネタ探しをしなくちゃいけないんだ。世の中のこと全てが、ネタ。つまり始めからアウトプットすることを前提に見るようになったよ。

だいたいは忘れちゃうんだけど、情報インプットの解像度は必然的に上がるよね。それぞれのちっちゃなことに自分なりの意見を考える。これについては、もう幼稚園児の頃からの癖だから、自然にやっちゃう。インプットと思ったことこれさえ揃えばネタになるってことだ。

続けてきてよかったね。まだまだ続くのだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。この部分から先のところは、あきらかに自分向けの文章じゃないね。万が一読んでくれた人に向けて付記しているのです。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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