エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「たべものラジオ」で思う、社会に関わるということ。 2022年2月11日

「たべものラジオ」を通して、食とはなにか、料理とはなにかという根源的な問いを発信している。表面上は、食べもののルーツを歴史的に紹介していくスタイルだ。歴史チャンネルの様相を呈しているので、これをきっかけに歴史に興味を持ったという人もたくさんいて、それはそれで嬉しいことなんだ。

ただ、「たべものラジオ」で表現したいことの本質はそこだけじゃない。

ぼくらが常識的に感じていること。それが実は、様々な変遷のなかで生まれてきた創造物だってことが一つにはあるよね。お茶でもお米でも伝統的なものとして捉えられるし、実際に日本人との付き合いはとても長いのだけど、深蒸し茶とか白米となると戦後のことだったりする。

その時代ごとのいろんな要素が絡み合って、先人たちが工夫を重ねた結果なのだ。

外食産業が当たり前のようになっていて、日本中のほぼすべての人が「グルメ」を楽しむことが出来るよね。たくさんのグルメに関するメディアがあるもの。これも、かなり近い時代になって実現したことだ。

かつては、一部の人たちだけのものだったんだ。

日本だけじゃないけれど、人類はヒエラルキー構造を持った社会が当たり前だった時代を過ごしていた。その中でグルメを楽しんだり、グルメを語り合うことが出来たのは階級の上部に位置する人たちだけ。いまでもその傾向はあるよね。高級料理は金銭的に余裕のある人達でなければ、自由に楽しむことは難しい。

それでも沢山の人達がグルメを楽しむことが出来るようになったのは、日本という国が全体的に資本が分散したからだ。いわゆる総中流社会。

こういう話をすると、いわゆる上流階級に閉じ込められたグルメが悪いようにも見えるけれど、そうとばかりも言えないんだよね。

上流階級の食文化が庶民に広まっていって、庶民の間で改良が加えられていってバリエーションが増えていく。という流れがある。その一方で、ファストフードだった料理が高級化していって、技術や食材が高度に洗練されていくということもある。ナレズシからニギリズシへと続く流れは、とてもわかり易い例だね。どちらも大切な要素ってこと。

良い悪いではなくて、こういったファクトを眺めてみてどう感じるかが大切なんだろうと思うんだ。

まちづくりとか町おこしに参加することがある。よく呼ばれるんだけどね。好きだし。いろんなプランや意見が飛び交っていて、それはそれでとても楽しい。と同時に、流れが分断していると感じることもあるんだ。時間軸の中でも流れ。文脈がプツンと断ち切られる感覚。

ぼくらの人生だって、社会だって、文脈がある。その文脈を知ると、なるほどだから今の社会がこうなっているのかと見えることがある。それって、今の行動が将来には同じように見られるということだ。

どういう文脈で、現在の行動をデザインしてベクトルを調整するか、そこに尽きるんじゃないかと思うんだよね。

だから、

「外の事例をまるごとコピーして当てはめたって意味がない」

のである。

「その地方社会の文脈に沿って、自分たちでストーリーを描く」

これだけである。

お茶や日本酒の業界を盛り上げようとして、ワインのテロワールを完コピしたってダメなんだよ。時代も社会も状況も、何もかもが違うのだから。利用するのであれば、ナポレオン3世のパリ万博や、ボルドーのシャトーの格付けや、新世界の勃興や、ロスチャイルド家の行動なんかも全部ひっくるめて学んだ上で「参考資料とする」くらいのものだ。

で、自分たちの社会を動かすための原動力としての想像力を働かせる。

創造するためには、確実に学びが必要なのだ。

これは、アイザック・ニュートンが言ったとされる「巨人の肩にのる」話に共通する。

まあ、未来想像図を描いたところで、想像図通りに実現したことはほぼ無い。歴史を勉強してみると、この諸行無常を感じるよね。そんなところも知っておいた上で、それでも「なにかしてみる」んだろうね。情熱を傾けたくなるものに、注力してみる。

でね。

結果は、未来の人たちが見ればよいのだよ。どうせ、現在の行動が正しかったかどうかなんて100年くらい先の人が俯瞰してみないとわからないんだから。

今日も読んでくれてありがとうございます。どこまで伝わるかわからないけど、それで良いかな。すでに発信された「たべものラジオ」というぼくらの創造物は、ぼくらの手を離れているんだ。受け取った人がどう解釈しても、それは自由。誤解が新しいなにかを生み出すかもしれないから、そういう誤解も楽しめたら良いんじゃないかな。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

-エッセイみたいなもの
-, , , ,