エトス・パトス・ロゴス。聞いたことがある人もいるだろう。プレゼンテーションや商談などで、相手を説得するためのポイントだという解説をしているビジネス書を見かかけるけれど、元はアリストテレスの弁論術に記載されている概念だ。
アリストテレスがどういう概念をもってこれを用いたかはさておき、よくあるビジネス書の「説得術」にはあんまり納得してないんだよね。アリストテレスの唱えた本質、それからその時代の背景なんかを無視して「説得するため」の手段として使うのもどうかなぁと思うのだ。
ざっくりとビジネス書に記載されていることを要約すると、エトスは信頼でパトスは情熱でロゴスは論理だと説明している。それらを「話術」で構築すると相手を説得することが可能だというのが主な流れだ。
まず、アリストテレスが生きていた社会を考える。ざっくりギリシアと言われているけれど、ギリシア地方はいくつかの都市国家があって、それぞれが独立していた状態である。連立国家など存在しない。その中のアテネという国家で、弁論術を「ビジネス」にする人たちがいた社会だった。それがソフィストと呼ばれる人たちで、アテネという外国にあって、生きていく手段のひとつだった。「論破する」という文化の流れの中にいた。アリストテレス自身がそうであったかはさておき、こういう文化にいたという事自体は考慮に入れる必要があるんじゃないかな。
つまり、「論破するための弁論」ということだ。アリストテレスが生きていた時代から、2600年。論破ばかりが良いわけじゃないという社会の中で、弁論術をどのように再解釈するかが大切なように思うんだ。前述したように、良し悪しは脇へ置いてというのはそういうこと。現代に合わせずにそのまま使用するのは乱暴にすぎるだろう。
エトス・パトス・ロゴスの内容について解釈に差異があるように思う。アリストテレスに会ったことがあるわけではないから、個人の見解でしか無いのだけどね。少なくともビジネス書に書かれている内容は変だなあと思うわけだ。
信頼を勝ち取り、情熱を伝え、論理的な話の展開をすること。この話が百ページくらいにまとめられて、千円以上の書籍として販売されている。なんだか価格の割に浅い気がする。
情熱を押し出した場合にしか通用しない説得って、話術の中の1パターンでしか無いんじゃないだろうか。そのくらい発言者が多様化している。いろんなタイプの人があらゆる局面で発言を求められるという事態が、おそらく古代にはなかったのだろう。
ぼくの感覚では、パトスは「情緒」に近いイメージ。情熱的に語るだけじゃなくて、感情を表現することで共感を得ることだってパトスの範疇なんじゃないかな。朴訥と語る姿に共感を覚えるというのだってパトスの範疇に入るように思えるのだ。
読み聞かせの情緒あふれる語り口が心に響くなんてことはよくあるでしょ。
わかりやすいからって、情熱というイチ単語に集約するのはちょっとどうかなと思うんだよね。著者がどう思っているのか知らないけど。
ま、「説得する」という言葉があんまり好きじゃないからこんなことを言ってしまうのかもしれない。説得も必要な場面もあるけれど、プレゼンテーションってそれだけじゃないからさ。説得で人が能動的に動き出すかっていうと、そうでもない。他の要素が必要だからね。
エトスもロゴスも言いたいことはあるけれど、今日のところはやめておくかな。長くなりそうだし。
そうそう。語る側の話しかしていないのも気になるんだよね。聞き手がどう感じるかについては、すっぽりと抜け落ちている。何に対して心が揺さぶられるかは、人によって違う。発言する人のパターンが増えているように、聞く人だって多様化している。古代に比べたら、共用のレベルが違うのだから。
今日も読んでくれてありがとうございます。今日の話は、あくまでもぼくなりの弁論術。実践経験のなかで、感覚的に捉えていったことを、後進に伝えようと思ったら言語化しなくちゃいけなくてね。その一部。異論もあるだろうけれどね。まぁ、こういう考え方もあるよねって参考程度に捉えてもらえたら良いかな。