エッセイみたいなもの

今日のエッセイ。スピーチの話。エトスについて

スピーチの話を少しだけ続けてみようかな。昨日は、パトスって情緒が含まれてるんじゃないかって話をしたんだけど、今日はエートスの話。エトスとかエイトスとか。まぁ表記ゆれはいいか。

言語についてはよくわからんので。

主に、信頼と解釈される。これは、概ねそのとおりだろう。じゃあ、その信頼ってどういう事象から感じ取るものなんだろう。聞き手側から見た時にね。

この解釈には、相当幅がああるんじゃないかと思う。肩書ってこともあるだろうし、実績ってこともある。その人の表情や、口調、声のトーンとか。いわゆる立ち居振る舞いにも現れるだろうしね。話す内容が聞き手とちゃんと向き合っているかなんていう、思考の姿勢にも現れる。それから、口コミだってあるよね。自分じゃなくて、権威ある誰かの評論が信頼を作るということは、本の帯とかにも使われる通りだし。そうやって広げていくと、権威とか権力もその範疇におさまってしまうわけだ。権威というと大仰かもしれないけれど、親とか先生だって、子供から見たら権威というくらいの感覚ね。

こうやって、ズラズラとなんの思慮もなく並べただけでもいろいろある。これを見て、自分はそれには響かないという人もいるだろうと思う。それが正常だろうね。誰が、どのエトスの表現に刺さるかは個人差があるんだろうからさ。

個人差については、昨日のエッセイでかいたとおりだ。

だから、通り一遍に「この型」で誰にでも通用するわけじゃないと思う。様々なバリエーションの中から、相手に合わせて話を進めていくことになるだろう。

アリストテレスの弁論術は、論破に対するカウンターとして存在しているわけだけれど。たくさんの人を相手に話すことを対象にしているのかな。まあ、そんな気がする。だとすると、最大公約数としてのエトスを用意することになるんだろうか。ひとつじゃないだろうね。

もし、1対1なのであれば、状況に応じて引き出しを入れ替えるようなことをするのかもしれないし。

とはいえ、多くの人がエトスを感じる要素というのがあるだろう。少なくとも、同じ時代の似たような社会の中で暮らしている人達の間には、一定の共有された価値観があるだろうからね。全く違う価値観の人たちと信頼を築くのは、なかなか骨が折れるかもしれない。それも、やりようはあるだろうけど。

一番は、「相手と真摯に向き合っているかどうか」なのだと思う。それが伝わるかどうかは、もしかしたらテクニックなのかもしれないけれど、それでも対面で話を聞いている人にはなんとなく伝わりそうな気がする。こういう部分は、言語の外に現れるからね。ある種の電波みたいなものが飛び交っているのかもしれない。知らんけど。

自己利益のためじゃないよ。そういうことが伝われば良いのだけれど、難しいよなあ。はじめまして、持ち時間は15分です。という状況下で、なかなか表現しにくいかも。営業さんで、一生懸命に自社の紹介をしてくれる人がいるのだけれど、僕の場合そこじゃないんだよなあ。と思うこともしばしばある。直接的に説明されるよりも、言外に伝わる姿勢ってことなんだけど。

そういう視点でみると、言葉遣いというのはひとつテクニックとしてある。常に聞き手の視点であること。これは訓練でなんとかなる部分もあるからね。感情や思考をしっかり読み取ること。それには、自分自身もその感情を体験していること。になるか。擬似的でもね。

今日も読んでくれてありがとうございます。ちなみに、このエッセイではエトスのことなんて全く考えずに書いてる。ぼくが後で読み返した時に、面白いと思えそうなことを書いているつもりだからね。一番最初の読者は僕自身。ぼくがぼくを信頼しているかどうかなんて、どうでも良いのだ。

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武藤太郎

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