どうも遠くの方を眺めると、誤差の幅を読み間違える。
「たべものラジオ」のこぼれ話です。
食べもののルーツを求めて歴史をさかのぼっていく。ところどころで、転換点がみつかる。転換点は、誰かが誰かに影響を与えていて、この出来事があったからあの出来事に繋がった、という「つながり」そのものだ。
つながりを知るためには、土地と土地、文化と文化、人と人がどのようにして交流していたのかが大切になる。
そんなに遠くで、交流もないのに影響しないよ。ということもある。実は、こういう航路で文化交流がなされていたということもある。距離的に遠くても、長い年月の間に伝播していっていくらかの影響を与えるということもある。
時系列が逆であると、その影響の方向は逆転してしまうのだから、ここではじめて年表が生きてくる。
今はどうか知らないけれど、学校で習った歴史の授業は「○○年に△△が起きた」の丸暗記である。そして、それを記憶しておくこと自体は、本当なら役に立つ。上記のとおりだけれど、文脈を読む上で必要な情報の一つだからだ。ところが、文脈を掴もうということなしに「事件と年」を覚えてしまうものだから、まったくもって記憶に残らないのだ。
その気がなかったのだから、いくら先生が教えてくれても覚えられるはずもない。
試験からして、正しい年と事件の名前を記述すれば点をくれるのだから、そうなる。
古い時代になると、そもそも時間軸があやふやになる。それは、文献が残っていないからどうしようもない。その影響かどうか知らないけれど、ぼくらの脳も雑になる。
「たしか、1350年だったよね」「いや、1335年だよ。」「そんなの誤差だよ」
ある意味で正しいのだけれど、間違いでもある。
25年違うのだ。自分の年齢から25歳分増減させてもらいたい。とても誤差とは言い難いはずである。室町時代であれば、生まれた子供が元服して、家督を継いで、子供を生んで、というくらいの時間の流れがあるのだ。もちろん権力者も変わっているだろうし、社会も変化している。
その事件がいつ頃だったか。そのものだけの話なら、14世紀前半くらいの解像度で良い。他の出来事との関連性の話なら、ピンポイントである必要がある。
歴史談義になってしまったが、その話ではない。随分と文字数を無駄に消化してしまった。
遠くのものは、距離感がつかみにくいという話だ。空に浮かぶ雲がどのくらい遠くにあるのかわからないし、となりの雲との距離が近くにあるように感じる。けれども、実際は数kmも離れていることだってある。
景色だけじゃなくて、時間軸でも同じことが起きている。
米文化は縄文時代に日本へ伝わっていた。
縄文時代と一口に言うけれど、1万年は縄文時代だ。その後のどの時代区分よりも長い。下手をすると文明が何度か生まれて滅んでを繰り返すくらいの時間がある。
時間や物理的な距離だけでなく、もしかしたら人間関係も同じことが言えるのかもしれない。どうなのだろう。他人と他人の心の距離感なんかは、自分と愛する人との間と同じようには見えにくいのかもしれないのではないだろうか。
それはそれで、悪いことではない。時と場合によって、当事者の気持ちを想像して共感する努力はしても良い。というくらいのことだ。大切なのは、「遠くの事象は距離感がつかみにくい」ということを知っておくことだろう。
今日も読んでくれてありがとうございます。メタ認知が進むと、自分のこともそう見えてくるのかしら。最近、150年くらい前のことを「比較的最近の出来事」として認識してしまう。