過去と未来の境目。実は常に境目にいるのだけれど、それを意識することは少ない。歴史的な転換点は、振り返ってみて気づくことが多くて、リアルタイムで感じることはなかなか難しいものだ。
歴史の勉強をしているときには、既に過去のものになっているのだから。
歴史を学ぶことの価値は、過去から現在に繋がる文脈を知るということがある。けれども、この文脈をどのように解釈するかによって、現在の行動に大きな影響を与えてしまうのだ。
本当は、過去は過去へ置いていくのが良い。「元々こうだったのだから、現在のこれはおかしい」みたいな話になるとおかしなことになる。
スシは漬物だったのだから、握り寿司なんておかしい。とは言わないよね。そういうルーツを辿ってきたんだね。面白いね。どうしてこうなってきたんだろう。これからどうしていくのが良いのかな。
現在と未来へ繋がるネタとして知っておくと良いよねってくらいのものなのだ。
文脈を知っていると、現在と未来を俯瞰して見やすい。俯瞰することが出来ると、「ああ、今時代が転換するときだなあ」ということに気がつく確率が上がる。
過去の亡霊に囚われてしまうと、全てが原点回帰になってしまうじゃない。原点ならまだしも、歴史をどの時点で切り取るかによって、見え方が全く違うものになってしまう。
1000年前の時点を切り取って、ここは我々の領土だったのだから返せ。というのならば、世界は色々とややこしいことになるよ。そんなことを言っちゃうと、ドイツは神聖ローマ帝国の後継なのだから、とか、イタリアはローマ帝国の後継なのだからとか。ほら大変なことになっちゃう。好きなタイミングを切り取ることが出来るのなら、そうなる。
社会というのはとても流動的で、普遍だったことなんか一度もないんだよね。動きが激しい時代も緩やかな時代もあったけど、固定されていたことなんか無いんだもの。
過去がこうだった。その延長上にちゃんと今がある。そして、今を起点にしてこれからどうするの?って話だ。起点はあくまでも、現在に置いて考えることが未来を考える上では大切なんじゃないだろうか。
未来の希望。
そういう意味で、今年は分岐点である。
過去の亡霊と未来の希望の戦い。
未来へ希望をつなぐための技術として、歴史、文化を学ぶこと、リベラルアーツを学ぶこと。なんじゃないかな。
こういう思想は、随分と前からあったようにも思うんだけど、はっきりと言語化出来るようになったのは、たべものラジオという番組制作にあたって、改めて勉強するようになったからだろう。近代史を勉強すると、現在がしっかり近代と地続きだってことを認識できる気がする。第一次世界大戦、第二次世界大戦の続きにいる。という目で社会を眺める。
明治維新や太平洋戦争で、違う物語に移行していったような感覚の人もたくさんいるだろうけれど。そんなことは無いのだ。全部、一つの文脈の中にいるんだよね。
世界情勢と身近な社会を一緒に考えるのは危険だけれども、根っこのところでは「過去の亡霊からの脱却」が「未来への希望」へ繋がるとうのは共通項なんだろうなあ。
今日も読んでくれてありがとうございます。戦争したくないっていう人が多いのに、結局そうなるのはなぜだろう。あえてスケールダウンして身近な生活に置き換えてみたら、少しは見えてくるものがあるのだろうか。