エッセイみたいなもの

今日のエッセイ ごっこ遊び。 2022年3月3日

2022年3月3日

「ご飯作ってるからちょっと待っててね~」と言って、娘はなにかの空き箱にレゴを放り込む。ガサガサとプラスチックのスプーンでかき混ぜる。そのスプーンだって、どこかでアイスクリームなんぞを購入した時についてきたものを洗ったものだ。

何一つ調理器具らしい形をしたものではない。

フライパンやガスコンロのおもちゃもあるし、マジックテープで繋がった野菜の形のおもちゃもあって、その野菜はプラスチックの包丁をつなぎ目に差し込むと「切る」体験が出来るのだ。

娘だって、おもちゃ箱の中にそれが入っていることくらいは知っている。けれども、その時は使わない。

今、それをやりたいから、目の前にあるものでやる。

ただ、それだけなのだ。

ついぞ忘れていたけれど、ぼくらだって子供の頃は「ごっこ遊び」をしたものだ。お金持ちの家の子が、豪勢なごっこ遊びをしていたのは知っているし、子供サイズの車や家には憧れもした。けれども、なんにもないごっこ遊びだったから楽しかったのかもしれない。

本物に見えなくても、「そういうことにする」と決めてしまえばそれで良いのだから。

「見立て」である。

難解な事象や抽象度の高いものを理解する時に、身近なものに見立てて理解を助けることがある。メタファーとも言われる、それだ。アインシュタインの相対性理論の説明なんかは、まとも受けても何のことだかわからない。動いている電車に乗っている人が、ボールを真上に放ってキャッチする。1秒間の垂直運動。これを電車の外にいる人が眺める。電車の移動分だけ移動距離が長くなっている。同じ1秒間なのに、見る人の場所によって移動距離が違うのだから面白いよね。ボールの場合は単純に相対速度が違うからだということになる。さて、ボールの速度が光の速さで、これ以上速くなることが出来ないとしたらどうなる?

有名な思考実験のひとつだ。

まさか、ごっこ遊びについて書いていて思考実験を書くとは思わなかった。

なりきる。ということと、借りてくるということは、コインの裏表のようにも捉えようによっては見える。なりきるというのは、「そういうことにする」という決め事である。借りてくるというのもまた、概念を他のものから借りるということでもあるけれど、「一旦はそういうことにしてみる」なのである。

ごっこ遊びは、意外とこんなところに繋がってるのかもしれない。

ただのこじつけのようにも思えるのだが。

そんなことをぼんやりと考えていると、娘がじっとこちらを見ていた。

ごめんごめん。娘に差し出された、いくつかのレゴを手にとって、ムシャムシャと食べる真似をする。う~ん、おいしい。ごちそうさま。もっとあるから食べて。食べてよ。食べさせたいという奉仕の精神もあるだろうけれど、もう少しこの遊びを続けたいということなのだろう。

これなら、食べ過ぎるということはない。もう少しだけ一緒に遊ばせてもらうことにした。

今日も読んでくれてありがとうございます。大人の知性と体力と行動力で、ごっこ遊びをやったらどうなるのだろうか。大人買いならぬ大人ごっこ遊びである。想像してみたけれど、何も思いつかない。遊ぶのが下手くそなんだなあ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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