「ご飯作ってるからちょっと待っててね~」と言って、娘はなにかの空き箱にレゴを放り込む。ガサガサとプラスチックのスプーンでかき混ぜる。そのスプーンだって、どこかでアイスクリームなんぞを購入した時についてきたものを洗ったものだ。
何一つ調理器具らしい形をしたものではない。
フライパンやガスコンロのおもちゃもあるし、マジックテープで繋がった野菜の形のおもちゃもあって、その野菜はプラスチックの包丁をつなぎ目に差し込むと「切る」体験が出来るのだ。
娘だって、おもちゃ箱の中にそれが入っていることくらいは知っている。けれども、その時は使わない。
今、それをやりたいから、目の前にあるものでやる。
ただ、それだけなのだ。
ついぞ忘れていたけれど、ぼくらだって子供の頃は「ごっこ遊び」をしたものだ。お金持ちの家の子が、豪勢なごっこ遊びをしていたのは知っているし、子供サイズの車や家には憧れもした。けれども、なんにもないごっこ遊びだったから楽しかったのかもしれない。
本物に見えなくても、「そういうことにする」と決めてしまえばそれで良いのだから。
「見立て」である。
難解な事象や抽象度の高いものを理解する時に、身近なものに見立てて理解を助けることがある。メタファーとも言われる、それだ。アインシュタインの相対性理論の説明なんかは、まとも受けても何のことだかわからない。動いている電車に乗っている人が、ボールを真上に放ってキャッチする。1秒間の垂直運動。これを電車の外にいる人が眺める。電車の移動分だけ移動距離が長くなっている。同じ1秒間なのに、見る人の場所によって移動距離が違うのだから面白いよね。ボールの場合は単純に相対速度が違うからだということになる。さて、ボールの速度が光の速さで、これ以上速くなることが出来ないとしたらどうなる?
有名な思考実験のひとつだ。
まさか、ごっこ遊びについて書いていて思考実験を書くとは思わなかった。
なりきる。ということと、借りてくるということは、コインの裏表のようにも捉えようによっては見える。なりきるというのは、「そういうことにする」という決め事である。借りてくるというのもまた、概念を他のものから借りるということでもあるけれど、「一旦はそういうことにしてみる」なのである。
ごっこ遊びは、意外とこんなところに繋がってるのかもしれない。
ただのこじつけのようにも思えるのだが。
そんなことをぼんやりと考えていると、娘がじっとこちらを見ていた。
ごめんごめん。娘に差し出された、いくつかのレゴを手にとって、ムシャムシャと食べる真似をする。う~ん、おいしい。ごちそうさま。もっとあるから食べて。食べてよ。食べさせたいという奉仕の精神もあるだろうけれど、もう少しこの遊びを続けたいということなのだろう。
これなら、食べ過ぎるということはない。もう少しだけ一緒に遊ばせてもらうことにした。
今日も読んでくれてありがとうございます。大人の知性と体力と行動力で、ごっこ遊びをやったらどうなるのだろうか。大人買いならぬ大人ごっこ遊びである。想像してみたけれど、何も思いつかない。遊ぶのが下手くそなんだなあ。