エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 仮に劣化するなら、ピークを盛り上げるか。 2022年3月4日

年齢を重ねるにつれて、自分の中のどこかしらが劣化する。するのか?よくわからないけれど、少なくとも身体的にはそうだ。老眼は始まるし、体力も衰える。視力のピークは子供の頃だし、体力のピークは高校生くらいだろうか。

ちゃんと鍛え続けない限りは、劣化をどの程度抑えるかという話になりそうだ。

視力なんかは、良くなるということは無いのじゃないだろうか。子供の頃すでに視力が0.1だったら、おとなになって2.0になるということは基本的にはない。今は手術することが出来るけれど、訓練でどうにかなるということはないらしい。

ピークが6.0の人だったら、視力が落ちたところで2.0だったりするのかな。

幸い、ぼくは視力だけは良くて、子供の頃の視力検査では2.0を超えていた。さすがにそこまでの視力は維持できていないけれど、低下したところで1.5や1.2くらいだ。今でも両眼視力でなら1.5くらいある。

では、人間の知性や精神はどうなのだろう。

見聞きする程度の話でしかないのだけれど、「昔はあんなに頑固じゃなかったんだけどね」とか「優しい人だったんだけどね」というセリフに出会うことがある。我慢がきかなくなるとか、自分の世界観に縛られるということが年齢に起因するのかどうか。

人それぞれ。だろうけれど、少ない経験の中では「あるかもしれない」と感じてしまう。

さて、仮に精神性も劣化することが「あり得る」と仮定してみる。

だとすると、ピーク時の高さが後の精神に作用するということになる。グラフを想像している。仮に、年令による劣化度合いが等しくあるとしたら、そういうことになる。

根拠もなにもないし、仮の話ではあるけれど、20年くらい前にそんなことを妄想したのだ。

ということになると、今のうちにピークとなる山を高くしなければ、高齢者となったときに大変なことになりそうだ。と思ったのだ。具体的に、人間力とはなにかを定義もせずに、漠然とね。そして、どうしたら高めることが出来るのかもわからなかったし、今でもふわふわした感覚でもある。

自分よりも若い世代に対しても、異なる世界観にも柔軟で謙虚。そういう方に出会うこともある。接客業をしていて、こんな老人になりたいなと憧れる人に出会う機会があるのだ。周囲の人達も口を揃えて素敵だと言う。

お話を伺ったり、書籍を読ませていただくと、若い頃からとても多くの学びを得ている。学ぼうとする姿勢が前のめりであることが多い。もしかしたら、これが一つの因子かもしれない。本から学ぶだけでなく、生活や仕事などもいちいち工夫して学びを積んでいる。

学びを得ることのひとつの成果として、他人の学びに敬意を払うようになるということがある。それは、学ぶということ自体が時間と労力を費やすものだからだ。自分ではたどり着けなかった思考に触れると、合意するかどうかの前に、その学びそのものに敬意を払う。そこに、年齢は関係ないのだ。

さらに仮の話だけれど、こうした傾向のある人は、そもそも劣化しないのかもしれない。価値観や世界観のバージョンアップをし続けるだろうから。頑迷でやっかいなお年寄りではなく、謙虚に学び続けるお年寄り。そういえば、高齢の知人が言っていたことがある。「時代は変化し続けるのだから、変化とその解釈を学び続ける必要がある。人類の社会が一定だった試しはないからね。」と。

今日も読んでくれてありがとうございます。そろそろ、人生の折返しの年齢に近づきつつある。100までは生きる予定だから、まだ半分でもないけど。後期人生で、どのような出口にするかは、実は今の生き方にかかっているのかもしれない。どうなるかわからないけどね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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