エッセイみたいなもの

今日のエッセイ メタ認知。GPSが無いときどうする? 2022年3月5日

人間にはGPSが搭載されていない。

物理的な場所を特定するということではなく、社会の中で自分自身がどうであるかを理解するためのものとしてのメタファーだ。メタ認知のためのGPSはない。

自らの世界観と、社会をメタ認知するためには、俯瞰することも必要になる。と、地図をイメージした。困ったことに、人生の地図は自分で描かないことにはどうにもならない。さらに、社会の中で自分がどのような位置にいるのかを知るすべも限られている。絶対位置が無いから。相対的に把握するより仕方がないのだ。

例えば、見知らぬ土地で現在地を把握するとしたらどうするだろうか。カーナビやWEBのマップであれば、現在地を表示してくれるけれど、それが無いとして。紙の地図。

まず、今見えているものが何かを把握する。わかりやすいランドマークのある場所にいれば楽だけれど、そうでないことも多い。目の前の建物がなんなのか、それを把握してから地図の中に同じものがないかを探す。合致するものがあれば、地図上の現在地を把握することが出来るわけだ。

地図上に見つけられない場合は、地図上に乗っているランドマークを探すことになる。わかりやすいのは高い建物だ。○○タワーとか、高層ビル、大きなお城などがそれに当たるかもしれない。そして、複数のランドマークを見つけて、それぞれの方角から現在地を大まかに把握することになるだろう。

このとき、ランドマークが全く見えなかったらどうするか。

移動するのだ。自分が移動することで、目印を探すのだ。目の前の建物の影に隠れているかもしれないし、もしかしたら目の前の建物だって反対側から見たら目印であるかもしれない。

メタ認知において、ランドマークは社会の中の「人物」や「出来事」などがそれに当たるかもしれない。移動するということは、自分の持っている世界観から抜け出すことになる。

世界観から抜け出すには、一度否定的な目で自らの思考を見つめることになる。他の人の価値観に触れてみて、その人の世界観で世界を捉えてみる。その世界観にどっぷり浸かる必要もないし、合意すら必要ない。とりあえず、その状況を想定して思考し直してみるということだ。意外な世界が見えるかもしれない。

今いる場所から、あちこちの方向へ歩き回ってみる。そうすると、周辺の状況が理解できてくるはずだ。見知らぬ土地を散策する時は、だいたいこれをやっている。同じことをする。

そうして把握した、周辺という小さな世界を基にして、またその外側を見に行く。こういうことを繰り返して徐々に世界観が広がっていって、どこかで居心地の良い住処を見つけるのだろうか。

ときには、電車に乗って隣の駅に移動することもあるだろう。そして、駅の周辺だけがわかるようになる。ただ、隣の駅周辺とのつながりがわからない。だから、そこから元の駅の場所へ向かって歩いてみる。そうすると、それぞれの位置関係が理解できる。

こうしたことは、本を読んだり、人にあったり、旅に出たりすることで得られるのだろう。そして、生活の中の学びとつなぎ合わせることで世界観が少しずつ広がっていく。

ともすると、今見えている風景が世界の全てだと感じてしまうかもしれない。わたしの考えこそが全てであって、他人は間違っている。そう考えてしまうと世界観は小さくなり、相対化出来ずに現在地を見失う。いろんな考え方があって、わたしの考え方は無数にあるうちのひとつである。それを教えてくれるのが、出会いというものだろう。

メンターや親というのは、少しばかり先を生きている人だ。だから、少しばかりは世界観が大きいはず。という視点で、「こっちにも他の世界がある」ということを知らせてくれる人だ。存在を知らせるだけの人。そこから踏み出すかどうか、どの方向に行くかは本人次第といったところかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。人生の中で、視野を広げるというのはなかなか時間がかかることだ。たくさんの世界観にふれるにはそれ相応の。難しい書籍でなくても、小説や漫画、ドラマ、映画、音楽、アートは、世界観に触れられる良い機会だろうね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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