ある程度は文字がキレイだと便利だよねという話。
書道で段位を取る必要はないのだけれど、基本的に文字とは「誰かに何かを伝えるため」に存在している。他人であれ、未来の自分であれ「情報を保存して伝える」という機能がある。むしろ、そのために生まれたと言っても良いかもしれない。
その上で、読めない文字を書く。これは、もはや文字の価値を損ねているのでは?
たまに、自分で書いた文字の判別ができなくて困るというシーンに出くわす。伝達のメモを見て、判別ができないので「これ、なんて書いてあるの?」と書いた人に聞く。そして「えーっと、うんとね。」と時間がかかる。
これって、時間の無駄じゃないかな。
本人がいればよいのだけれど、いないときはとても大変だ。仕事上の引き継ぎだったりすると、もしかしたら重要なことが書いてあるかもしれないと、必死に解読をするはめになる。そういうことは、言語学者にまかせておきたい。
少なくとも、同じ言語を使用しているのであれば、わかるように書いてもらいたいのだ。
小学生の頃に、なぜか同級生に勉強を教える羽目になった。ぼくは理不尽だと思ったのだけれど、テストで零点を取った同級生が全く勉強をしていなかったらしく、班の連帯責任ということでたまたま班長をしていたぼくが勉強を見ることになった。
そこで気がついたのだ。字が汚くて何を書いてあるのかがわからない。逐一確認しなければ、いけないのだ。
その時は、ちょっとイラッとしただけだったのだけれど、改めて自分の書いた字を見てみると人のことを言えた義理じゃないということに気がついた。たまたま、幼い頃に祖父が手ほどきをしてくれたし、小学生の途中までは地域の書道教室に通ったこともあったから、それなりに読める文字ではあった。けれども、急いで書くとなんだかわからない文字になる。
たいていの「メモ」は走り書きだ。
メモを丁寧に書いていたら、時間がかかってしょうがない。いちいちあとから書き直すのも手間だ。学習のノートであれば、そういう作業が効果を発揮するだろう。けれど、メモはメモ。基本的に使い捨てになる。しかも、あとから読み返す時に判読出来ないのではメモの意味がない。
これは?
もしかしたら、走り書きの文字を読みやすく書くことが出来たらとても便利なのでは?ということに気がついた。文字は早く書こうとすると、細かな部分を省略したくなる。いやせざるを得ない。トメハネハライが雑になる。だから読めなくなる。
だけれども、読めるような形状を保ったまま、つまり特徴をしっかり残したまま省略することが出来ればメモとして優秀なのではないか。
中学生の時に、たまたま隣になった女の子が見事な字を書いていた。達筆なのだ。聞けば、書道の有段者である。「わたし、ゆっくり書けないんだよね。性格なのかな。だから楷書が苦手なの。」そうか、行書というのはそのためにあるのか。全部マスターすることは出来なくても、崩し方のコツさえ知っていれば、これは共通のルールだからみんなが読める上に早く書くことが出来る。
少年のぼくは、とても大きな発見をしたような気分だった。
今日も読んでくれてありがとうございます。上手かどうかはさておき、誰でも読みやすい文字を書くということは、大切なことなんだろうなあ。というか、便利だ。苦手な人は、少し訓練するだけでも断然変わるのでおすすめだ。ほとんどPCになった今では、活躍することは少ないかもしれないけれどね。