エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 職場の環境整備のリーダー論 2022年3月9日

もうだいぶ前の話にはなるのだけれど、サラリーマン時代に部下からこんなことを言われたことがある。「武藤さんは頑張り過ぎなんです。もう少し馬鹿でいたほうが良いんじゃないですか。」

なるほどねぇ。彼が言うことを聞いてみると、少しくらい抜けてるほうが、みんなでその穴を補おうとする。だから、任せて欲しいというようなことだ。

それが真理のひとつなのかもしれない。なのだけれど、これが案外難しいのだ。頭ではわかったつもりでも、じゃあどうすればよいかとなると困る。意識していても、体はそのとおりには動かないから。

最も最低なリーダーはバカにされるリーダー。

その上は恐れられるリーダー。

その上は尊敬されるリーダー。

最も優れたリーダーは、人からあまり存在すら意識されないリーダーである。

悠然とめったに口を挟まず、ことが成し遂げられれば人々は「自分でやった」と言うでしょう。

これでリーダーの仕事は達成だ。

これは、老子に書かれているリーダー論の超訳。まぁ、そのとおりだろう。歴史上にも最上のタイプの偉人はたくさん登場する。偉人本人のスキルは低いのにことを成し遂げていったのは、劉備玄徳のようなタイプ。政治力は諸葛孔明よりもずっと低いし、戦闘力は関羽のはるか下だろう。しかも、もともと権力の座についていたわけではない。草鞋だかなにかを編んで生計を立てていたような人だ。天下を取るには至らなかったけれど、成り上がりという意味では豊臣秀吉に比ではない。

これを才能とするならば、恐ろしいほどの才能である。

サラリーマンよりもずっと前。大手量販店でテナントのリーダーをしていた頃のことだ。量販店の責任者、同じテナントの先輩、他のテナントのリーダーたちと「リーダーの役割」について話したことがある。お酒の席でのことだから、概念的な話が多くはなったのだけれど。

「わかってないなぁ。リーダーの仕事は環境を整えることなんですよ。」

先輩からズバリ。環境というと少々ドライに聞こえる。事実先輩はシステマチックに労働環境を整えることをメインに考えていた。ぼくらは、もう少し人間味あるようななにかがあるんじゃないかという話もしたものだった。

この場合の「環境」という言葉を、どの様に定義するかで解釈は随分と変わってくる。ほろ酔いの頭でも、なぜかこの言葉はしっかりと心に刻まれていて、今でも残っている。残っているがために、この言葉を自分なりに咀嚼していったわけだ。

パズルのピースのように役割がハマって、その役割を効率的に快適に行えるようにすることも環境整備といえる。これに、もうすこし追加していく。仲間たちが能動的に考えて、自ら動きたくなるようにする。これも環境整備と言えるのではないだろうか。

老師の言葉は、後者に近い感覚だろう。

自分以外の他人が能動的に動く環境というのは、実は怖い。想定していなかった事態が発生する。良いときもあるだろうけれど悪いときもある。もしも、自分のほうが能力が高ければ「それは違う。こうすべきだ」と言ってしまうかもしれない。でも、そうしてしまうと自分の中の世界観からは永久に出ることが出来ない。素晴らしいアイデアに出会う機会を失うことになる。

そうなると、失敗を許容する覚悟が必要になる。最後はなんとかするからやってみなよ。方向性を合わせて、信頼して、任せて、失敗しても責任を取る覚悟。決めておくのは、踏み越えていけないラインだけ。そうだ。スキー場のコースの脇にあるロープ。あのくらいのものだろうか。

今日も読んでくれてありがとうございます。ID野球で有名だった野村克也監督がそういうタイプのひとだった。後ろにはわしがおるんや、やってみぃ。カッコエエよね。

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武藤太郎

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