エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 食のバランス「濃度」のはなし。 2022年3月16日

食と健康について、の続きをしようかな。

昨日に引き続きだけれど、今日は「濃度」の話だ。バランスを取るにしても、その濃度って大事だよねってことが言いたいのよ。

シーソーをイメージしてみて。両方に5kgの重りを置いて、それはバランスが取れているということになるよね。これが、150kgずつでもやっぱりバランスが取れる。そうなんだよ。総量が多すぎると、それってバランスが良くないということになる。シーソーに例えるなら、そもそもシーソーが折れるぞって。

さらに続けると。その重りが鉄塊と水のタンクだとする。重りの材質が違う。重さという指標においてはバランスが取れているけれども、体積としては全くバランスが取れていないということになるね。

濃度って、もう少ししっかりと考えなくちゃね。

一般的に健康食品として販売されているものに「減塩」「低糖質」と謳われているものがある。これは、ある一側面においては正しく健康食品だ。ただ、一側面でしか無いわけ。そもそも、塩分が体内から無くなったら人間は生きていけない。糖質は、生命エネルギーの根幹だし、脳は糖質以外のエネルギーを利用できない。めちゃくちゃ重要な栄養素でもある。

「旨味は毒」だ。海外のSNSで炎上していたのだけれど、これもまた一側面。UMAMIは西洋諸国は薄い文化だからね。そういう反応をしたくなる人もいるのかなあ。あと、日本人でも「塩昆布キャベツ」は「キャベツのうま味調味料和え」と同じものだ。くらいのことを投稿している人もいた。

確かにうまみ成分は、脳に影響を与えることがわかっていて、精神異常をきたす恐れのある成分だ。マウスを使った実験もある。だけどね。人間の体積に換算すると、一日で大量にうま味調味料を摂取するとそうなるよって話。それもとんでもない量を。やらないでしょ。小瓶一本を一日で使い切ることなんて無いでしょ。そういう次元の話。

それで言ったら、すべての食材や成分が毒だということになるわけだ。

昔から言うじゃない「薬も過ぎれば毒となる」って。

以前、こんな主張をされる方に出会った。水道水の塩素濃度が高すぎて人体に危険である。根拠は、小犬の肌荒れである。と。今回は詳細なエビデンスには言及しないけれど、端的に言って体積が違うんだよね。人間の新陳代謝の能力や、体積を考えて「安全」という基準を作っているわけだ。対象が変われば、同じではないのは当然じゃないかな。どうだろう。

有名な香水と、クサヤのニオイ成分が実は一緒だということも聞いたことがある。詳しいことは知らないけれど、濃度ってそういうことじゃないかな。香水つけすぎると、臭いわけだ。とくに日本人は嫌がるよね。うっすらだと、いい香りということになる。その匙加減が大切なんだろう。

料理で言えば「塩梅」。

この塩梅も、結局人間の本能が決めているんだよね。やっぱり、センサーが鈍ると濃い方が良くなっちゃう。というか、濃くないと気が付かなくなっちゃう。

この濃さをうまいこと調整してくれるのが、天然素材なのかもしれない。

極端なことを言ってしまうと、「昆布とカツオの合わせ出汁」と「化学的に全く同じ成分を調合した液体」とでは、同一のものということになる。これが完璧にこなせるのであれば、それはそれで成立する。だけど、それが出来ないのだよ。めちゃくちゃ困難。仮に出来たとしても、保存性がなくて商業化出来ない。保存料を添加した時点で「同一物質」ではなくなるからね。

この例で言えば、比較的容易に「程よい濃度にしてくれる」のが昆布と鰹節という「天然素材」だということになる。濃度の基準となるものは、自然界にある。と、今のところは感じている。草木の放つ香りも、野草の味わいも。美味しいと感じる塩分濃度は体液だし。もっと自然の中を感じる時間をとらなくちゃね。散歩でも行こうかな。

今日も読んでくれてありがとうございます。さじ加減というのは、他のジャンルでも大切なんだろうな。面白いからと言って、何度も同じことを話していたらつまらなくなっちゃうもの。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

-エッセイみたいなもの
-, , ,