エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「自分」を使いこなす。って難しい。 2022年3月29日

ぼくらは、ぼくらが思っている以上に「自分」を使いこなせていないのじゃないか。と思う。なんとなく複数形で書いてしまったけれど、ぼくだけのことなのかもしれない。だとしたら、「使いこなせていないのじゃないか」ではなくて、「使いこなせていない」と断定する。

「自分」と言うと、なかななに幅広い。身体のコントロールも含まれるし、感情やスキル、特性、環境も含めれば多様だ。

体の使い方に限ってみても、スポーツもあれば、歩く座るといった日常動作もあるし、絵を書いたり、歌ったり、声を出したり、僕らのような料理人であれば思い通りに包丁を動かすことも含まれる。理論だけ学んだら、もしくは映像を見たらその通りに体が動けば楽ちんなのだけどね。そうはいかない。

サッカー選手は、足という不自由なパーツでボールという不確定要素が多い物体を自在に操る。こういうところが、面白さの原点なのかも。他の人が出来ないことを器用に行えるというだけでも、それは身体感覚が優れているということだろう。訓練のたまものだね。

体を自由に使っている。この一事は表面に現れた事象でしか無い。けれども、その表層を見るだけで、その人が膨大な時間と労力を費やしてきたことが想像できる。背景も含めて、面白いと感じたり、美しいと感じたりするのだろう。

子供の頃からいろんなことを学んで育ってきた。現代社会では家庭や社会に加えて、学校教育がある。現在の学校教育がどのようなものなのか。それは、内側に入ってみないことには本当の姿は見えない。ただ、ぼくが経験した学校教育は、比較的実用性の高いもの、実用性に近い距離で繋がるもの、が多かったんじゃないかな。どうだろう。もう遠い記憶だから、脳内変換されてしまっているかもね。

実用性をどう捉えるか。これは定義が難しいところだから、いろんな解釈があるだろうなあ。

学校教育の中で、体の使い方をもう少し本格的に取り入れたらどうだろう。体育の時間がそれに当たるはずだ。けれども、実際に大人になってからの自分を見る限り、自分を使いこなせるレベルには至っていない。参照事例がひとつしかないのでなんとも言えないな。ぼくだけなのか。

もし、他にも多くの人が「自分を使いこなす」ことが出来ていないのなら、もう少しだけ体育や音楽や美術など、身体運動を伴う科目を増やしたらどうかと思う。現代人は年齢を問わずに忙しいから、そんな時間は避けないと言われてしまうのだろうか。だけど、大切だと思うんだ。一見すると生産性につながらないように思えることが、実は個々のパフォーマンス発揮に大きな影響を与える可能性があるんじゃないだろうか。

自分を使いこなすために、体を動かして体験することが肝要になるだろう。そのためには、見るという行動も大切だ。それもホンモノを見る。例えば、素晴らしい絵画があったとして、それを教科書のなかの転写で見るのではない。実際に美術館に出かけていって、生でホンモノを見る。二次元のようでいて、実は立体。光の加減も違う。だから、目に飛び込んでくる情報の質がまったく違うはずだ。大きさも周囲の雰囲気も、見る人に大きな影響を与えるだろう。

美術館でアートを見る。ホールで音楽を聞く。劇を見る。スタジアムにスポーツ観戦に行く。こういった活動を学校教育の中に取り入れるのは、なんだか難しそうに感じてしまうよね。いろんな事情が絡むだろうし、予算だってかかる。だから、現在ではこの部分が家庭環境に依存している。収入に余裕のある人とそうでない人、両親があまりにも忙しくて一緒に行けない人。時間とお金の両面で家庭の負荷になっている。ということは、ここに格差が生まれるということだ。

極論してしまうと、経済格差が子どもたちの「自分を使いこなす」能力の格差に繋がっている。そういう可能性もあるのではないかと思う。

ここまで書いておいて、具体的な解決策を思いつかないのだから、ただの妄想でしか無いけどね。

今日も読んでくれてありがとうございます。靴ずれをして、歩き方が下手くそなんだろうなと思ったんだよ。歩くなんて、たくさんの人が当たり前にやっていることなのにね。そしたら、こんな思考になっちゃったわけだ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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