こうして毎日文章を書いているわけだ。気がつけば投稿数も400を超えていた。しょうもないことばかりを書き連ねていて、と謙遜してみるのだけれど。中にはホントにしょうもなくて、読み返すのも憚られるものもある。
これだけ文章を書き続けていたら、少しは上手になっているのだろうか。
なっていないだろうね。
だって、ホントに上手な文章を知らないから。ぼくのリテラシーが低いために、スゴイと言われる文章を読んでも気が付かない。上手であることは間違いない。というくらいは気がつく。なのだけれど、圧倒的にスゴイ、かなりスゴイ、そこそこスゴイ、の差分がもやっとしてる。その違いを明瞭に説明できるレベルにいないのだ。
そんな状態で、何万文字書いたところでどうにかなるものじゃないだろう。一向に進歩しないはずだ。してたら怖い。
言葉というのは、コミュニケーションのための手段。これはまあ、異論は無いだろうと思う。たぶん。それこそ、違う解釈や知らない世界があるのかもしれない。知らないので、とりあえずはコミュニケーションの手段の一つということで話をすすめる。
言葉は、かなり便利な道具だ。改めて感じる。こうして書き出しているだけで、脳内で妄想していたこととは違った思考にたどり着くことが出来る。独り言でも良い。自分の外側に置くという動作をするだけで、それまでの自分の世界観が変わることもあり得る。これは、1のコミュニケーション。自分との自分ね。
他人とのコミュニケーションで便利であることは誰もが知るところだ。もし言葉がなかったら、文字だけじゃなく言語そのものがなかったら。これはかなり難しい気がする。まあ、言語が存在する世界で生きているわけだから、それ以外の世界を想像することが出来ないでいるだけかもしれないが。
どうやってコミュニケーションをするのだろうか。動物は鳴き声や行動でコミュニケーションを取っているらしい。鳴き声も言語のカテゴリーに入れてしまうと、ホントにコミュニケーションってどうして良いかわからない。
言葉は、素晴らしい発明である。一方で完全ではない。と言える。
どうやっても言葉にならない感情もある。景色、情景を言葉だけで表すには限界がある。言葉を使って説明するよりも、映像や写真や絵、音や匂い、触覚の方が圧倒的に多くの情報を伝えることが出来ることもある。いや、伝えたつもりになるのか、受け取ったつもりになるのか。
今、一瞬迷子になった。
言葉というツールでコミュニケーション出来ないことがあって、それは視覚や聴覚などで出来る。と、ここまでは良い。ただ、言語以外のツールは、解釈の幅が広そうだなと思ったんだ。誤解、誤読を生む。誤読を楽しむシチュエーションでは、それが良い方向に働く。けれども、ピンポイントで伝えたい時には誤解や誤読が生まれたら困る。
となると。使い分けが大切だよ、ということになるのだろうか。
じゃあ、ピンポイントで伝えたい無いようなのに、言葉では表現できないモノゴトの場合はどうしたら良いのだろう。表現方法として存在するのか。ああ、そうか。そこに名画や名曲というものが関わってくるのかもしれない。解釈の幅の広い創作と、ピンポイントで表現している創作。それぞれのカテゴリーで「良い」があるのだろうか。アートを語るリテラシーも無いのに、アートに例えてしまった。このままだと迷走して事故を起こしそうだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。このエッセイも、たべものラジオも、いずれも言葉だけに集中している。言葉に集中することでしか表現できないものがありそうだと思うから。だったら、もう少し文章うまくなるような訓練したら良いのにね。