不便であることが、愛着を生む。という話をした。現代では機能的になっていて、たとえばコンピューターが自動でやってくれることなんかを、あえて自分でやる。サービスとしてやってくれることがわかっているのに、あえて自分でやる。そういう不便さをあえて商品デザインに仕込んでおく。
そんな発想だ。
続きを書き始めたのは、これってモノと人との関係だけじゃなくて、もっと幅広く適用できる概念なのではないかと思ったからだ。どうだろう。ちゃんと考えたわけでもなく、結論もないままに文字を並べ始めてしまった。
すぐに思いつくのは人と人の関係だ。置き換えたらどうなるだろう。便利になっているけれど、あえて不便さを残すことで愛着を生む。カスタマイズされていって、そこにしなかいオンリーワンに育っていく。そんなことがあるのか。
この問いはカンタン。ある。むしろ、人間関係というのは、こっちがベースになっているはずだ。メールやラインで済むはずのことを、わざわざ会って話す。無駄といえば無駄だし、忙しいビジネスマンからしたら煙たがられるはずだ。効率が悪すぎる。
会社にもよくセールスの電話がかかってくる。これも不便ではある。まどろっこしい時間を過ごすよりも、概要はわかったからメールを送ってくれと思う。効率を求めれば当然の反応なんだろうな。
一方で、地域に根づいた会合なんかはそうじゃないんだよね。大した議題じゃなくても、とにかく顔を合わせることがポイントなのだ。どこの家の誰それで、最近はどうなんだとか、他愛もない話で繋ぎ止めながら、互いの顔を見合わせる。何かを決議することもあるけれど、大切なのはそっちじゃない。互いに面倒な手続きを踏むことで、愛着を生むこと。それによって、居住地域の連帯や互助関係の礎にしていく。
そういうデザインだとも考えられる。
昨今の状況で、オンライン飲み会なるものが一定の市民権を獲得した。実に便利だ。はるばる1時間もかけて会いに行かなくても、帰りの電車の時間を気にしなくても良い。苦手な人にとってはお酌なんかも必要ない。パジャマだって良いって場合もある。
でも、やっぱりこれは代用品なんだよね。そうなんだ。リアルに集まれる日までの繋ぎでしかない。この感覚は沢山の人が共有できるものだろう。わざわざ時間をかけて会いに行く、来てくれて嬉しい。こういう一手間がハレをハレとして仕立てていく。特別なことだから愛着が湧く。そういうものなのかもしれない。
おや?ここ最近のエッセイで書き出してきたことが重なってきたぞ。
となると。非効率な「お酌」の文化も、実は互いのコミュニケーションを深めるための「不便さのデザイン」であるのかもしれない。という気がしてきた。
カニを食べるのは手がかかる。剥き身にして出してくれたら楽ちんなのに。いやいや、あの手間があるからより美味しく感じるんだよ。と言われたら、なんだかそんな気もしてきてしまった。不便さを解消するためのソリューションではない。不便さを肯定するメイクセンス。ある種の言い訳。
すべてが便利であると無味乾燥になりそうだ。けれども、すべての不便を肯定する気にもなれない。大切なのはシチュエーションなんだろうなあ。それぞれのシチュエーションに最適な表現を充てていくデザイン。とうとうここ一週間のキーワードが連結を始めてしまった。
脳内で熟成が始まっているのかな。エッセイを書いていて面白いのは、暗渠が合流するようなこの瞬間なんだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。そう言えば、このエッセイを毎日書くという面倒なことが不便さのデザインにどこかで合流してきそうな気もする。身体感覚を伴った面倒なことが、一見非効率だけれど思わぬ気づきに繋がって、長期的な効率を生み出すのかもしれない。かもね。