レゴブロックはとてもおもしろい。あんなにシンプルなものなのに、子供だけじゃなくオトナも一緒に遊ぶことが出来るのだ。子供と一緒に遊んでいたはずの大人が夢中になるということだってあるくらいだ。その大人だって、子供の頃にはレゴブロックで遊んでいたという人は多いだろう。
シンプルだからこそ面白いと感じるのだろうか。ものを作ること自体が面白いのだろうか。
おもちゃのブロックというのは、レゴに限った話じゃないけれど決まった形がある。例えば車や家を作ろうと思ったとして、そのカタチを模すのだけれど。それは、明らかに現実にある車や家の形とは異なる。凸凹しているし、きれいな曲線を描くなんてことは難しい。
しばらく前に、トヨタが実寸台の車をレゴで再現するというプロジェクトがあった。あれだって、よくよく見れば凸凹しているわけだ。ホンモノと同じわけじゃない。
レゴと言葉は似ているような気がする。
モノや事象や感情など、様々な物事を言語化する。言語化することで考えられるのだけれども、それは抽象化するということでもある。感情を完全な形で置き換えているわけじゃないと思うんだよね。かなり近い言葉を選んでいるのだけれど、ちょっと違う。音楽で言えば、生演奏で奏でられる音とデジタル収録された音の違いなのかな。
人間の耳では捉えきれない音域は、カットしてしまうとか。そうじゃなくても、アナログをデジタルに置き換えただけでも、一部に情報の欠損が生まれてしまう。それで良しとする。そんなことが「言語化」にも起きているんじゃないだろうか。
ということは、今度は聞く人の問題だ。聞く人が、言語を受け取ったときにデジタルデータをアナログに置き換える必要がある。音楽の場合はその作業をプレイヤーがやってくれるわけだけれど、会話の場合は人間同士で行う。そんなイメージなのかな。
デコボコした抽象的なデータを、受信してからアナログ情報に置き換える作業。この作業も、けっこう難易度の高い作業なんだろうな。だから、同じ言葉を聞いても人によって解釈に違いが生まれたり、そもそも理解できないなんてことも起き得るのだろう。
受け手のリテラシーによって、受信感度が変わる。だから、同じ本をもう一度読み返したときにも新たな発見をすることがあるんだ。ってことになるね。本は変わらなくても、読み手側が変わるから。
そう考えると、本というのはなかなか難しいデータ媒体だ。本だけじゃないか。文字というものがそうなのだ。何度も触れることと、読み手の経験とで、読み方が変わってくるのだから。書くときはそれも織り込んで書くのだろうか。どうなんだろうな。ぼくはそんなこと考えずに書いているのだけれど。まあ、解釈がズレても良いよね、くらいには思っているけれど。
言葉以外の情報媒体になっているのが、音や絵、匂い、などの他の感覚器官なのかもね。もっと粒度が粗いような気もするけれど。大雑把だからこそ、データの漏れが少ないとも言える。大雑把なデータだと、さらに受信者の高い能力が求められるのかもしれない。能力っていうのは、感受性だったり想像力だったり、推察するチカラだったりするのかな。
なんだかもやっとしてきたなあ。感情や思考を伝える手段として、いろんな抽象度の伝え方がある。ということなのか。そのなかでも、比較的細かく伝えられる便利なツールが言語なのか。更に、それを操る習熟度で個人差が生まれると。
今日も読んでくれてありがとうございます。モヤッとしてきたので、もう少し考えてみようかと思います。なんでこんなことを考えているかって?コミュニケーションとか、クリエイティブといったものがぼくらの社会の根幹じゃないかって思ったら、そのツールが気になっちゃったってことかな。