ケータイとか、テレビとか、よくよく考えなくてもやっぱりスゴイよなあ。現代ではこんなにありふれているのに、その一つ一つはハイテクノロジーのカタマリなのだ。子供の頃には夢の世界だったようなことが、現実になっている。日常の一部だ。日常に溶け込みすぎていて、改めて見直さないと気が付かないくらいだ。
デジタル信号のやりとり。ケータイで使われるようになったのは、20年くらい前だろうか。世代でいうと3G。人によってはCDMAという言葉を聞いたことがあるかもしれない。それまでの電波通信が比較的アナログだったのに対して、ここから思いっきりデジタル化した。
ここでCDMA方式の詳細を書き連ねても意味はないからね。それは置いておいて。ぼくがびっくりしたよという話。
ケータイで発信した音声はバラバラに解体される。例えば「おはよう」と言ったら、「お」「は」という単位どころか、もっと細かく切り刻んじゃう。もう音じゃない。ただのノイズ。
このノイズになった状態で、情報が運ばれていく。で、別のケータイに届く。受け取ったケータイはこのままじゃ会話にならないから、もう一度組み立て直す。瞬時にパズルを組み立てていく。このときに、困らないように記号が付けられていて、その順番通りに組み立てるのだ。
ね。スゴイことやってると思わない?ガラケー時代の話。あんなちっちゃい端末の中で、バラバラにしたり組み立て直したりしてるんだってさ。
特に、何にびっくりしたって。あの短時間の間にバラバラにしたものを組み立ててるのか、ってところ。だから、ちょっとタイムラグが発生するんだけどそれでもスゴイじゃない。
受信する能力っていうのは、とても重要なポイントだ。昨日の話に無理やりつなげてしまうけれど、日常会話であっても、結局ケータイのようなことをやっているかもしれない。流石にバラバラではないけれど。
「受け取った信号」と「自分の中にある情報」を照らし合わせて、照合できたものを理解する。
たぶん、ぼくらがやっていることはこれだ。相手の頭の中を直接覗く事が出いない以上は、どうしようもない。だから、受け手の持っている情報量によって解釈が違ってくるのだろう。この作業が嫌だということになったら、脳内に直接チップを埋め込むとか、そういうことになるんだろうか。ま、それはどうでもいいか。
会話は。いやコミュニケーションはと言ったほうが正確かな。とにかく、発信する方も受信する方も、自分の中にある情報の量と質、それを元にした推察力が支えているんだということになりそうだ。ぼくなんかは、ついつい発信する言葉自体にたくさんの情報を詰め込んでしまいがち。なんだけど、もっと少なくてもよいのかもしれない。相手の中にあるモノをね。
映画や絵画、音楽などアートの世界では「観客を信じる」という表現がある。ここまで発信したから、あとは受けての問題と、すっかり割り切るスタンスだ。
会席料理も懐石料理も、受け手を信じ切ることで成立する食事のスタイルだ。一品ごとに、一献ごとにメッセージが込められていて、世界観が現れている。それを、お膳の上で感じ取っていくのが本質だ。良いとか悪いとかじゃなくて、そういう文化なのだ。言葉じゃないコミュニケーションを行うこと。
献立表をテーブルに置いてくれているお店もある。それはとても親切だしわかりやすいのだけれど、本質的にはどうなんだろうね。なんとなく、あらすじのネタバレを見ながら映画を鑑賞するような感覚もあるんだけれど、どうだろう。ぼくは、あんまり見ないから良いけどね。
茶の湯も同じことをしている。言葉を使わずに感じ合うコミュニケーション。だから、武士のような多くを語らない美徳を持っていった人たちに受け入れられていったのかもしれないね。教養としてさ。
今日も読んでくれてありがとうございます。コミュニケーションとはなにか。コミュニケーションツールはどういったものがあって、どんな動きをしているのか。どうも最近はそこが気になってしょうがない。