料理人同士で会話をしていて、こんなことを聞いたことがある。「立場が人を成長させるってありますよね」と。その時の話の流れでは、飲食店で料理人として働いていた時と比べると、自分で店を始めてからの方が料理の上達スピードが早い、だったと思う。
責任感が違うからだろうね。と、話しはまとまったような気がするんだけど。もう少し掘り下げて考えてみても良いかな。
まず、思いつくのは、能動性。従業員として働いている場合、料理人が創造性を発揮する機会は意外と少ないんだよね。もちろん、全てじゃないけれどね。親方やトップシェフがいて、その人が考えた料理を再現する役割を担うことが多い。設計図が予め決まっているから、その通りに作る。レシピ通り。
こういう時、再現するための技術が重要になる。天ぷらの揚げ方を自分なりに工夫することもあるけれど、最終的に「これをベストと定義する」という決定権は親方にあるわけだ。料理って、答えがたくさんあるからね。どれをベストと解釈するかは大切なんだ。
再現する人たちは、親方の優れたレシピや献立を学ぶことになる。ワザや思考を盗むには最高の環境だね。
ここに、ひとつ問題がある。まぁ問題と言うと大げさな感じがするな。
実際に食べたお客様からのフィードバックが、料理人に届かないんだ。褒められたら嬉しい。武藤くんの天ぷら美味しいって言ってたよ。なんて聞けば、とても嬉しい。なんだけど、それは「親方の定義したベストを再現する能力」を褒められたということに限りなく近い。
能動的に自分で考案した料理が褒められると、実はもっと嬉しい。アートってそういうもんじゃないかな。写実画を見た人が、まるで写真みたいと褒めることがある。それは、技術を褒めたということだよね。作家さんとしては、嬉しいは嬉しいんだけど、そこじゃないんだよなあ、って思うらしい。その技術を使って、表現したいものがある。そこにホントの価値があるんだと。
同じように、料理も「表現したいこと」「世界観」があって、それを自由に表現するための技術がある。だから、料理を褒められたというときは「親方が褒められている」って感じてしまうんだろうね。
自ら創造性を発揮して、それを楽しんでもらえるようになると、人間は楽しくなる。もっと喜んでもらおう、楽しんでもらおう、という気持ちになる。そうすると、もっと工夫をしてみたくなるんだ。こんなのはどうだろう、こっちに変えたら、といろんなことを試し始める。失敗もたくさんするだろうけれど、良いものが出来た時には嬉しい気持ちは最大になる。そんな感じかな。
立場が人を成長させるっていうのは、能動的に挑戦をすることが出来る環境であるかどうかに通じているんじゃないだろうか。
この延長上で、お客様からのフィードバックをちゃんと受け取れる環境であるってこともあるね。お店によって違うんだろうけれど、ごちそうさま美味しかったよと声をかけられやすいかどうか、ってこともある。それなりの規模になると、料理人は厨房にこもっていることが多い。カウンターだったり、配膳も自分でやるようなところだったら良いかもしれないけどね。
店主とか店長みたいな人は、お客様が帰る時にお見送りに出ることが多いのかな。旨いもマズイも、言われるだろうし、楽しそうな雰囲気かどうかも見てわかる。ということもあるんだろうな。良し悪しのフィードバックを受け止める覚悟という意味では、責任感とつながるんだろうか。
なにせ、店主ともなると人生がかかっているからね。お客様から直接いただくフィードバック以外にも、自分からフィードバックを探しに行くもんね。食べ残しなんて、情報の宝庫だし。配膳スタッフがいるようだったら、ヒアリングする。ということもあるのかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。楽しんでもらう、喜んでもらうが存在意義だとすると、結局反応は気になるわけだ。自分の表現したい世界観との接合点を見極めるような感覚。オーナーじゃなくても、みんなが同等の環境に置かれるような仕組みを作れないもんだろうか。というのが、掛茶料理むとうのテーマのひとつだ。