エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 興味のないことは知らないことが多い。 2022年5月1日

もう「ふぐ」や「すっぽん」じゃない時期になってきた。

旬じゃないのだ。やっぱりなんだかんだと冬を中心として、晩秋から初春あたりがピークになる。5月にもなると、すっぽんは小さいものが多いし、味も乗っていない。ふぐなんかは、そもそも漁期から外れている。だから、提供できるふぐは養殖か冷凍しておいたものにならざるをえない。こればっかりは、自然が相手なのだからしょうがないんだよなあ。

今年もゴールデン・ウィークが始まって、ちょこちょこと「ふぐ」や「すっぽん」を希望されるお客様からのご予約を頂いている。幸い、旬の時期に仕入れたものが特殊冷凍で保存されているから、それなりの品質で提供することが出来る。これに関しては、冷却技術の進歩に感謝だ。ありがたい時代になったとよね。

ただ、中には「冷凍なんだったら良いや」とか、「養殖ならやめておく」とおっしゃる方もあるのだ。天然の鮮度の高いものが手に入らない季節なのだから、しょうがないじゃないか。というのは、たぶん業界にいなければ分からないのことなんだろう。

洋服だったら、大抵の人は季節感というものが理解できるだろう。真冬にTシャツにハーフパンツで外を歩く人はいないだろうし、真夏にダウンコートを着ている人もいない。季節感がどうのこうのと言わなくても、生活に支障を来すわけだ。当然、季節感というもにもある程度は認識がある。

肌感覚で理解できると言うだけじゃなくて、毎日触れているからってこともあるんだろうな。

例えば、毎日スーツを着て仕事をしている人は、多少なりともスーツのことを知るようになる。なんとなく知るのか、本などで学習するのか、人から学ぶのかはわからないけれど。とにかく毎日使っているからこそ、多少はわかるようになる。冬物のスーツを夏に着ることはないし、夏用のスーツを真冬に着ることもない。同じ黒いスーツでも、冬用と夏用は明らかに色味も違うし、厚さも違う。ということくらいは、覚えていく。

けれども、めったにスーツを着ない人にとっては、知らないことだろう。実際に、上記の違いを話したことがあって、これを聞いて驚く人もいたのだ。知らないことが悪いってことじゃなくて、用がないのだ。その世界観に触れる機会も必要もない。だから知らない。ただそれだけのことなんだよね。

こんなことは、実は食や洋服のこと以外にたくさんあるような気がしている。

昨日のエッセイでも少し触れたけれど、言葉のアクセントが英語と日本語では根本的に違うという話。これなんかは、まったく気が付かない人だっているよね。ふぐやスーツよりも、よほど触れる機会が多いはずなんだよ。だって、日本語と英語なんだから。現代の日本人が触れる言語としては最も多い言葉でしょう。興味がなければそうなるんだよ。それがフツーだ。

ぼくらとしては、もう少し料理のことや、日本の自然のこと、文化のことに興味を持って欲しい。どういう文脈で私達の文化が継承されてきたのか、その結果今の社会がどうなっているのかを知ってほしい。そういう気持ちはある。だから、たべものradioなんてポッドキャストをやっているわけだ。

こういう発信は、思いのある人がどんどんやればいいし、やった方がいい。

ただ、想いが強いからと言って、知らない人を攻めるのも違う。そもそも興味が無いのだ。だから、知るつもりがない。そこに良い悪いとか、上下なんてないと思っていないと、世の中が面倒なことになると思うのだ。だからといって、興味のない人が興味のある人のことをウルサイととかオカシイというのも違う。どちらもあって良いじゃんね。

豚肉が好きな人と牛肉が好きな人がいて、どっちも好きな人がいる。いいじゃん。

今日も読んでくれてありがとうございます。興味もなくて、知らないのに知ったつもりになって、人を攻める人がいる。それは、カッコ悪い。良いとも悪いとも言わないけれど、ぼくの美学に当てはめると、まじでカッコ悪い。やっぱ、ぼくみたいな価値観はちょっとめんどくさそうだな。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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