エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 興味のあることも知らないことが多い。 2022年5月2日

興味があって、色々と勉強する。勉強するというか、まぁ何かしらの情報を入手して、それなりに思考を巡らせるわけだ。学びといえば、学び。そうすると、どんどん知識が溜まっていくような気にはなるんだ。ちょっとだけ賢くなったような気にもなる。なんだけど、すぐにそれが錯覚だってことに気がつくんだよね。

昨日と真逆のことを言い始める。興味があることも、やっぱり知らないことが多い。

もちろん、昨日の話とまったく相違があるわけじゃない。知らないという言葉の意味が違うかもしれない。この一年位で、ぼくは食べ物の歴史やルーツについて、だいぶ詳しくなった。日本史や世界史についても、そこそこ詳しくはなっているだろう。事実、1年前の自分とはまったく知識量が違うわけだ。

でもなあ。なんだか、何も知らないという気分は前よりも強くなっていくんだよ。

たべものradioの原稿を書くために、色々と本を読む。本の著者は、さらっと当たり前のように書いている事象でも、ぼくには初耳だってことがある。それはもう、しょっちゅうある。既成事実のように書いているけれど、なんでそんなことになっちゃったのよ、とツッコミどころが満載なのだ。別に、そういうもんだと丸呑みして次へ進んでも構わないのだけれど、とにかく気になってしょうがない。どのくらい気になるかというと、次のページ内容が半分くらい入ってこなくなるくらいだ。

もちろん、理解しないと次の情報を理解できないということもある。それとは別に、聞き流しても理解に影響がないくらいの情報も気になってしまうのだ。

スーパーマリオブラザーズというゲームで、ひとつのはてなボックスを無視して進めることも出来るじゃない。コインの1枚くらいスルーしたところで、ゴールするのに影響はない。コインをたくさん集めると1upするのだけれど、それも1枚くらいだったら、大勢に影響はない。なのだけれど、もしかしたら1UPキノコかもしれないし、別世界への入り口かもしれないし、と考えると気になる。だから、ちょっと道草をする。ちょっとくらいの道草なら、ゴールするのにそんなに時間が変わらないから良いよね。

そんな気分かもしれない。

これがさ。ゲームの世界だったら、軽い話になるんだけど、現実ではそうはいかないんだよね。大抵の場合が別世界への入り口になっているのだ。ちょっと調べ物を始めただけなのに、ウィキペディアを延々と開き続けるようなことにもなり得る。ブラウザーのタブがどんどん増えてしまって、最終的に本来の目的とは関係ない記事を読んでいた、そんな経験をしたことがある人もいるんじゃないかな。

世の中には、こんなにもぼくが知らない世界があるんだ。という、世界の広さ、知の膨大さ、価値観の多様さ。何もかもに驚かされる。なんとなく、たべものについて詳しくなったつもりになっていたけれど、歴史もソコソコ知った気になっていたけれど、入り口の一番端っこに足を乗せただけなんだって。やっぱり、知らないことが多いってことに気がつくんだよね。

ダニングクルーガー効果とか、不知の知覚(無知の知)とも言われるあれだ。ダニングクルーガー効果については、賛否が分かれるらしいのだけれど、どっちでもいいよ。ぼくは体感しちゃったから。自分がいかに無知なのかということを。知ったのじゃなくて、体感してしまったから。開けちゃいけない箱を開けちゃったのかな。だけど、駄目だって言われても楽しいんだよ。この箱の中身。おもしろい。

今日も読んでくれてありがとうございます。学生の頃は、あまり意識をしていなかったけれど、学ぶって面白いよね。かなり強力なエンタメコンテンツだ。だから、たくさんの書物が古い時代から読みつがれてきたんだろうな。なにが面白さを減速させてしまったのだろう。もったいない。

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武藤太郎

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