どこの業界にも業界用語というものがあるらしい。あまり異業種交流会に出席することはないのだけれど、他業種の方たちが会話をしているのを聞いていると、何を話しているのかさっぱりわからないことがある。大手企業になると、社外では通じない言語というものすらある。もっと一般的な用語を使えばよいのにとは思うのだけれど、特殊な単語を使うことで余計な説明をカットすることが出来るのだから実は効率的なのだろう。
飲食業界にも当然ながら業界用語は存在する。前述のように解像度を上げてくれるような単語もあるし、必要のないものもある。なんでこんな言い方になったのかがわからない言葉もある。新人にとっては、知らない単語が飛び交っていて意味がわからないままに困ることもあるんだよね。
初めて胡麻豆腐を練る時は困ったよ。まだ追い回しだった頃のことだ。追い回しっていうのは、いわゆる雑用係。親方や兄弟子のから雑務を言い渡されて、まるで追い回されるように忙しく作業をするということがもとの意味らしい。実際には、魚をおろしたり、盛付の手伝いなどもやるようになっていたから純粋な意味での追い回しではなかったのだけれどね。それでも、胡麻豆腐に手を出すには早すぎるくらいだ。
胡麻豆腐というのは、そこそこ技術が必要だから、火加減などをある程度は体で理解できるようになってから調理が許されるようなところがある。たまたま、副責任者である「二番」が忙しかったから、火にかけてすぐの頃だけやらせてもらったのだ。もちろん、仕上げは上司がやるし、手本も見せてもらっていた。
とにかく指示されたとおりに一生懸命やっていると、いろんな先輩方から声がかかる。「お、もう胡麻豆腐やらせてもらってるのか(笑)」とか「鍋に当てるなよ」とか。前者は、明らかにからかっているのがわかるのだけれど、困ったのは「鍋に当てるな」だ。
胡麻豆腐というのは、地道で単調な作業の料理だ。葛粉とすりごまと昆布出汁、調味料を鍋に入れて火にかける。弱火でゆっくりと加熱しながら、材料が均一に混ざるようにかき混ぜ続けるのだ。当然、鍋底から先に加熱されるから、葛粉は鍋底で固まっていく。全体が同じ柔らかさになるように、しっかりと鍋底からこすり取るように混ぜなければならないのだ。そのままにすると、鍋底の部分だけが焦げ付いてしまう。焦げ付けば、全体が焦げ臭くなってしまって、全てが台無しになるのである。
そこで「鍋に当てるな」の指示だ。上司の一人である煮方さんの言葉。煮方というのは、煮物や鍋物などを統括する人だ。
かき混ぜるのは木べらなのだけれど、「当てるな」というのはどういうことだ。木べらを鍋に当てるなということか。でも二番からは、焦げ付かないようにしっかり鍋底からかき混ぜろと言われている。さっぱりわけが分からない。仕方がないので、木べらが鍋に触れないように、それでも一生懸命に混ざるように、でも大きく波が立つと良くないので慎重にかき混ぜた。
と、様子を見に来た二番から「なにやってんだ!」と叱られたのだ。そんなんじゃ、鍋底が焦げてしまうじゃないかとね。たしかにその通りなのだ。疑問に思いながらも、当てるなという指示を守った結果そういうことになった。ということで、しょげかえりながらその話をしたところ、周りにいた兄弟子たちが大笑いしたのだ。「当てる」というのは、鍋底を焦がすことだったのだ。
焦げる。というとわかりやすいのだけれど、日本料理の調理場では使い分けをする。焦げるのは、焼き魚でも揚物でも発生する。焼き物では焦げるという表現を使うのだけれど、鍋物などで底の部分だけを焦がしてしまうことを「当てる」と表現するのだ。なぜそうなったのかは、調べてみても文献が見当たらなかった。
今日も読んでくれてありがとうございます。結局ひとつで終わってしまったけれど、言葉の意味がわからずに困ったり失敗した経験は僕だけじゃないだろう。いろんな面白い失敗があちこちにあるはずだ。