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今日のエッセイ 卒近代の家庭料理を探しに行こうよ。 2022年5月12日

家庭料理という言葉は、明治以降に登場したものだ。それまでは、料理というのは店を構えるような料亭でのみ使われる言葉だった。現代の感覚に置き換えると、よくテレビCMで「料亭の味」というコピーが使われているけれど、それこそが「料理」だったのだ。だから、「家庭」と「料理」がくっついた新しい熟語は、相反するものの組み合わせで、そこに目新しさと面白さがあって、新しい文化を指し示していたのだろうね。

家庭料理は、暫くの間は良かったんだよ。それはそれで、家庭での団らんを促すものになったしね。どんどん核家族化していく時代背景の中で、ともすると家族の繋がりが希薄になりかねなかった。仕事から帰ると、家庭料理が待っていて、そこには家族の団らんの時間が用意されている。まさに、サザエさんの世界観そのものだ。これは、戦時体制を除けば明治から昭和までの長い期間で機能していたと思う。

ところが、これが機能しなくなってきているのだ。

かつての家庭料理は、女性が担ってきた。いわゆる専業主婦である。江戸時代までは、女性も働く家庭がとても多かったはずなのだ。江戸や大阪などの一部の地域で、一部の人達は専業主婦だったくらいのものだ。これが、全国的に広がっていって、日本全体に専業主婦というスタイルが定着する。

だからこそ、家庭料理が成立するわけだ。

現在はどうだろうか。多くの家庭では夫婦共稼ぎである。この言葉自体、どうもしっくりこないんだよなあ。社会の中で働くことに対して、男女の隔てなく当たり前のように活動をするようになっている。ある意味、元々のスタイルに近づいたような気もするんだけどね。まぁ、それはいろんな意見があるので、それはそれとして。

とにかく、みんながみんな「生産活動」に参与するようになったというわけだ。

ということで、当然だけれど家庭の中の用事にかけられる時間が短くなっている。つまり、食事を作るための時間がどんどん短くなっている。それはそれで、全然問題ない。そういうものだというだけのこと。否定も肯定もしない。

言いたいのは、社会活動が変化したのだから、料理に対するスタンスも変わって良いんじゃないか、ということなんだよね。

土井善晴先生がよく「一汁一菜でええんや」と言っているのだけれど、まさにこれだ。とても良くわかる。家庭料理は日常の食事を「ハレ」に変えた。毎日毎食違うものを食べるし、何種類ものおかずが並ぶ。そういうのが家庭料理になったのだ。けれども、ホントに毎日毎食違うものを食べる必要があるのだろうか。そりゃもちろん、ハレの日には手のかかった料理を楽しむのは良いだろうし、そうであって欲しいと思う。一方で、忙しい毎日の中では、毎日同じものを食べていたって良いわけだ。

毎日同じものばかりを食べていると、「栄養が偏って健康に影響が出そう」とか「飽きてしまいそう」という不安を持つかもしれない。それに対しては、歴史が答えを出している。毎日同じものを食べても飽きずに健康を保てる食事が確立されていたのだ。それが一汁一菜+というスタイル。おかずも「the・メインディッシュ」である必要はない。ちょっとしたもので良いのだ。魚に塩を振って焼くだけだったり、ホウレン草をお浸しにしたり。それで充分に楽しめると思うんだよね。面倒なら、いろんな食材を味噌汁の中に入れてしまったら良いんだよ。

歴史が答えを出しているというと、江戸時代の人は体格が小さくて寿命が長くなかったのだから日本料理礼賛的な言い方は良くないという人もいるだろう。それは違うんだと思うよ。それは、スタイルの問題じゃない。食料需給だったり、質だったりの問題。それから、生活や労働の環境にも要因がある。

今日も読んでくれてありがとうございます。副菜に凝りすぎているんじゃないかな。そういうのは、ぼくらみたいな商売で料理をする人にやらせればいいのよ。凝らなくちゃ家庭料理じゃないなんて強迫観念がどこかにあるから、料理はタイヘンだってなっちゃうわけでしょ。もっと気楽にやったら良いと思う。

Posted in エッセイみたいなもの

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