久しぶりに、料理や食文化に言及したエッセイが続いているなあ。掛茶料理むとうの日刊エッセイなのだから、本来はこれが正しいスタイルなのかもしれない。そうか。今までが脱線しすぎていたのか。まぁ、そもそも脱線しがちな料理店なのだ。そんなものかもしれない。
しばらく、副菜だとかおかずについて書いてきた。ホントは主食やメインという料理スタイルによる概念の違いについて書いてきたのだけれどね。結果的に、副菜に言及せざるをえないからそういう事になった。ということで、今日は副菜について語ってみようと思う。
おかずを凝りすぎているんじゃないかな。もっと気楽に料理に向き合ったらどうだろう。ということは、昨日のエッセイで書いた。実はこの通りのことを、もう少し細かく語ろうと言うだけのことだ。
日本料理、いや日本の文化や美意識というものが、自然をそのまま愛でるということに通じていると言われている。色々と変化させるのではなくて、今見えている景色が良いんだよとね。江戸時代の医師で学者の本居宣長は、「源氏物語に語られている「もののあはれ」という日本の情緒が文学の本質」と提唱した。これと同じことを言っているんだ。
清少納言の枕草子の冒頭はとても有名だから、日本人であれば一度は詠んだことがあるだろう。「春はあけぼの~」のあれだ。春は朝が良いよねとか、夏は夜が良いよねとか、そんな話。これ、季節ごとの良い時間帯を説明しているという感じじゃなくて、どの季節もみんな良いよね~っていうように聞こえるんだよ。
この時期、静岡あたりではカツオが旬を迎える。というのだけれど、カツオの旬って結構長いんだ。今の時期は「初がつお」。夏になると盛のカツオになって、秋ごろになると戻りがつおになる。
だいたいどんな食材もそうなのだけれど、「初物」「盛物」「名残物」という3つの区分が付けられている。わざわざ、名前がつくというところがポイントだ。一番良いものをっていうだけなら、盛物だけあれば良いんじゃないかな。だって、一番良いときなんでしょ。という捉え方をすることが出来る。だけど、そうじゃないんだようなあ。それぞれのタイミングにはそれぞれに良さがあって、そういう味わいを楽しもうってことなんだよ。
桜が咲く前の蕾も味わいがあるよね。そろそろ8分という、盛の直前も良い。満開は誠に見事だ。ハラハラと散っていく様も情緒があるし、若葉が芽吹いている様も生命力が溢れていて清々しい。葉桜もまた見事。
葉桜をも愛でるというのが日本文化の特徴なのかもしれない。
日本の食文化もこれなのだ。ずいぶんと脱線したな。要はね。ちょっと足りないところがあっても、それはそれで良いのよ。足りないということそのものを楽しむという感覚ね。あれこれと魔改造してしまうと、全然感じられなくなっちゃうでしょう。だからこそ、村田珠光から始まる茶道の世界観では、侘び寂びが尊重されていて、千利休によってフォーマットが確立されるわけだ。つまり、ごちゃごちゃといじりなさんな、ということ。ちょっとだけ余計なものを取り払って、見やすくするくらいがちょうどいいのよ。とね。
だから、日本料理は引き算の料理だと言われている。素材そのものの良さを引き出すために、余計なものを取り払ってやる。庭に咲いた一輪の花が愛おしい。その艶やかな姿を引き立てるために、ちょっとだけ周りの草を払ってやる。でも、草をすべて取ってしまったら、その花の良さがかえって見えなくなってしまう。
日本料理の引き算というのは、ほんの僅かなもの。このさじ加減が微妙なので、そこにこそ技術が集約されているように思えるのだよ。
話を副菜に戻すと、おかずを作る時にあれこれと手を加えすぎる必要はないんだってことね。微細なさじ加減だと言っても、それはもう先人たちが「基本」としてまとめてくれているんだから、素直にそれに従うだけのことだ。茹でるとか蒸すとか、塩を振るとか、シンプルなものばっかりだからさ。
今日も読んでくれてありがとうございます。日本のものは、なんとなく古臭いとか抹香臭いなんて言われ方をすることもあるのだけれど、これがなんとも良いのだ。自然体というのは、こういうことを言うのかもしれない。自然でも野生でも、不自然でもない、このさじ加減。