エッセイみたいなもの

今日のエッセイ たべものRadioの原稿&台本と学習について 2022年5月20日

昨日の続きです。どんなふうに学習しているのかって、話ね。ストーリーとか筋とか流れみたいなものを想像して、その証拠を探す。そのストーリーをいろんな角度から眺めて解釈の幅を広げる。ざっくり言うと、そんな感じのことを書いた。

今日は、それをどうまとめるかだ。

結局のところ、すべての情報を丸暗記することは無理。それに、あんまり意味がないんだよね。スシなんかさ。メチャクチャなくらいに別物に変化してきたわけだ。最初は漬物(発酵食品)だったものが、握り鮨になるんだから。なんでそんな事が起こったんだろう。とか、どういう流れで変わったんだろう。周りの人はそれをどう感じていたんだろうとか。面白そうなポイントがわかれば良いわけだ。

これは、ぼくがそういうポイントを好んでいるからだろうけどね。

最初にやり始めるのは、ざっと目次を読む。なんとなくの大筋を想像してみる。昨日の話で言えば、荒くピンを刺す感じだね。それを元に、最初の時点で感じた疑問を問いとして書き出しておく。これがファーストステップ。

そしたら、とりあえずブログや論文みたいに書き始める。書き出す内容の順番は人それぞれなんだろうけどね。僕の場合は「そもそもこの食材の本質は?」「食材としての効能」「作り方や収穫」「成り立ちと変化の歴史」「現代の接点」「全体を通して感じること」という構成が最近のパターン。特に決めていたわけじゃないけれど、だいたいこうなっていることが多い。全体を歴史として語りながら、他の部分を見せていくこともあるか。ビールの話は後者かな。歴史の中の物語を語って、本質や作り方なんかを語る感じ。

で、大切なのは、この文章の読みては自分だということだ。誰かに見せるんじゃなくて、自分専用というつもりで書き出す。後から読み返した時に、自分自身が納得できる内容で、自分自身が楽しめる流れで、だ。なぜなら、ホントに読み返して使うからなんだよ。この文章のことを、ぼくは原稿って呼んでいる。

原稿は、ぼく専用の教科書だ。とにかく、この原稿を読み進めれば、ぼくが最も楽しく学べるという状態にする。必要であれば図解やデータも記載する。見方を変えたら違って見えた、みたいな感想も混ぜながら書いちゃう事が多いかな。ただ、読む時にどこからどこまでが学んだことで、どこからが自分の意見なのかがわからなくなるから注意が必要だ。ちなみに、最近の原稿では文体で書き分けているよ。基本は「である調」の文体で、独自解釈や感想はこのエッセイみたいな口語調にしてる。それはまぁ、どうでも良いっちゃ良いんだけど。

ここで完了しても良いのだけれど、実際にたべものRadioで話そうとすると、タイヘンなんだよ。情報量が多すぎたり、整理しながら喋るのって労力がかかるから。そこで、1回の収録に対してペライチの資料に作り変えている。これが台本ね。面白そうなポイントを絞って、ストーリーを整理したものを書き出すんだ。

その方が、聞きやすいんじゃないかと思ってさ。慣れてくると、このくらいの量だったら何分くらいの番組になるかが想像できるようになるはずなんだよね。ハズレまくってるけど。

実は、これがメチャクチャ良いのよ。もちろん、話すという行為のために有効なんだけどさ。それだけじゃなくて、学びとしても良い。まず、「誰かに伝えるために」という前提がある。要点をまとめて話すには、全体をしっかりと把握してなくちゃいけないでしょ。その中から、重要なポイントを探し出すことから始めるわけだ。つまり、何が重要ポイントで何が枝葉なのかを整理することになるんだ。これは、かなり有効。

あと、これ二回目じゃない。同じストーリーをもう一度辿るんだ。一回目は、調べ物をしながらだから思考が遅い。そのぶんトルクが強いんだろうけど、全体が見えにくい。二回目に辿ると、大筋がクリアに見えるんだ。街を歩くのに、慣れた道なら景色を楽しみながらも迷わずに歩ける。そんな感じね。ワクワクは無いけど、それはそれで違った楽しみだったりするわけだ。

とまあ、こんな感じで準備してから収録に挑むわけだ。そう言えば、実際に話すのも記憶の定着につながっているかもね。台本からさらに整理が必要だしさ。想定していたことと違うレスポンスがあったりするからね。そういう刺激が、記憶の定着に効果的なのかもしれない。

今日も読んでくれてありがとうございます。実は、とっても面倒な作業をしているようだ。書き出してみるとね。でも、やりだすと楽しいんだよ。解釈が広まったり深まったりすると、日常生活の景色が違って見えたりしてさ。絶景を見に行かなくても、遊園地にいかなくても、日常が面白くなっちゃう。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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