写真を撮る技術のことはよくわからないのだけれど、本質は技術じゃないんだなあ。技術は、表現するために必要なものだ。ただ、そこに表現したいものがあるかどうかがポイントなんだってね。
世の中の景色は、誰が見てもだいたい一緒。そして、誰にとっても見え方は違う。
カクテルパーティー効果というのがあるよね。パーティー会場みたいに騒がしい場所では、たくさんの音がなっている。声や、足音やBGMや食器などの音。その中から、自分が必要としている情報だったり、重要だと感じる音だったりを無意識に選択する脳の働きのことね。唐突に誰かが自分の名前を口にしたら、耳に入る。いわゆる地獄耳っていうのは、このカクテルパーティー効果のひとつなんだろう。
カクテルパーティー効果は、音の認知能力のことだけれど、拡大解釈することが出来る。視覚的な情報も同じようになっているんじゃないかな。同じ景色を見ていても、気になるものだけが見える。見えるというか、そこにピントが合っているように認知しているし、興味の対象が画角の中心に来るように認知している。って感じかな。
カクテルパーティー効果ではないけれど、同じ景色から呼び起こされる感情は、ひとそれぞれに違っている。ただただ無表情な人物写真があったとして、対象の人物の感情をどのように読み取るか。人によっては悲しそうだと感じるかもしれないし、優しそうだと感じるかもしれない。もしかしたら考え事をしているようにも見えるかもしれない。背景や仕草や他の情報の中から、感情を推測するわけだよね。このとき、ぼくらは「自分自身の経験」を読んでいるように思えるんだ。
ある状況を見て、それを自分の感情として経験したことがある情景に似ているとしたら、自分の感情を呼び起こしてしまう。過去の感情がふわっとよみがえる。それを、新たに感じているように思うのだ。自分自身の感情ではない場合もあるよね。例えば、恋人の表情と写真に写っている人物の表情が似通っていれば、その時の自分を重ね合わせる。
前者は、より主観的に共感することになるし、後者であれば客観的にではあるけれどそばに寄り添うような気持ちを抱くということになるのかな。
写真を撮影する人が、その景色をどのように認知していて解釈しているのかを含めて、世界を切り取る。そういうのが写真なんだろうなと、なんとなく思うんだよ。
でね。わかりやすい表現もあれば、わかりにくい表現もあるんだろうなって。撮影者の感情がストレートに現れている表現。それから、心は動くのだけれど、撮影者の感情が読み取りにくいものも。後者は、見る人の感情に多くの部分が委ねられている。とにかく心は動く。けれども、その結果表出する感情は観察者によって変わる。
世界がそうであるように、写真の世界でも誤読を促すのだ。少しだけ、なにかしらのカラーフィルターを載せるような感じでね。ほら、この部分って心が動くよね。日常でちょっと見過ごしてないかいって。そんな呼びかけのように感じる。
世の中には、たくさんの景色がある。景色と言っても、絶景ポイントを指しているわけじゃないよ。ぼくらの見ているもの全てが景色だ。そのなかのひとつに、食事も含まれている。ホントは驚くほどたくさんの食材があって、調理方法もあって、更に料理を作る人によってさじ加減は無限だ。
料理っていうのは、食の世界をどのように見ているか、食の世界をどう切り出すかっていうことに通じているようにも思える。作りての世界観が現れるんだよね。世界観を表現するために、それぞれの技術があるってことだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。一定水準以上の美味しさは、料理を生業としている以上は当たり前のことだ。そのうえで、どのように世界を切り取ってお客様に感じてもらうのかってこと。高級料理でもファストフードでも、結局のところそこに集約されるんじゃないかな。