エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 個の捉え方の違いから、食とコミュニケーションを考える。 2022年5月31日

昨日は、唐突に「食のパーソナライゼーション」というワードを登場させてしまった。いま、世界の潮流で起こっていることがあって、その中で語られる言葉なんだ。

近年になって、DNA検査がかなり安価で出来るようになってきた。それでも10万円くらいかかるらしいのだけれど。そこで得られる情報というのは、アレルギーだったり体質に見合った食生活だったり、人体の健康維持に必要なものなのだ。健康に良い食事というのは、民族や文化圏や気候で区切るのではなく、もっと個人ごとに違うよねって話なんだよね。今までは、どちらかというと逆方向に進んできたわけだ。

元々は、文化や気候や民族、もしくは生活環境に根ざした食生活があった。そういったものでそれなりに健康の維持に貢献してきた。それが産業革命以降の近代化で、大きく変わる。人類にとって健康的な食とはなにか、という途方もなく大きなくくりで考えるようになったわけだ。万有引力みたいな普遍共通の定義ができるはずだと。ところが、それではうまくいかないことがわかってくる。一人ひとりに違っていて、だからこそ生物はバグを発生させて進化してきた。というようなことね。その結果、究極のパーソナライゼーションみたいな話になってきているんだと思う。

これはこれで、たしかになあと感じる部分でもある。一方で、あまりにも微細にパーソナライゼーションすることに少しばかりの抵抗がある。ぼくらの食文化、いや生活や社会そのものは過去からの文脈が紡ぎ出した先に存在しているからね。その文脈をぶった切ってしまうのってどうなんだろう。とね。

それから、健康というのは直接身体にだけ働きかけるようなものでも無いだろうとも思うんだよ。精神が身体に及ぼす影響というのがある。それは、偉大な科学者たちが証明してきたことだしさ。

食のパーソナライゼーションをコミュニケーションの目線で捉えてみる。そうすると、昨日の話が持ち出されることになるんじゃないかと思う。究極の個と関係性の中の個扱い方ね。

人類は、ずっと長い時間「食事」をコミュニケーションの根幹に据えてきた。貴重な食料を、無償で分け合える相手を仲間としてきた。それが、家族から集落、地域、国家と、仲間と呼ぶべき集団のサイズを大きくしてきたわけだよね。集団が肥大化していく中で、食だけじゃなくて、富や精神的な豊かさだったり、物質的な豊かさだったり、言葉やアートだったりがハブとなってコミュニケーションを支えてきたんじゃないかな。そんなふうに見えるんだ。

それと同時に、コミュニケーションの強さとか深さみたいなものにもグラデーションが出来たんだと思うんだ。例えば、日本の親子関係は西欧文化と比べるとかなりベタベタと密着したものに見える。アメリカなんかはわかりやすいのだけれど、子供は生まれてすぐに子供部屋で過ごす。ベビーベッドは両親の寝室にないという家庭が多いんだって。両親という個と個が繋がり合っていて、その間にもうひとつの個が発生した。だから、個が3つになったという感覚だそうだ。日本は、もっと密着型だよね。あくまでも傾向だけどさ。ベビーベッドはたいてい両親の寝室にあるし、川の字になって床をのべるという文化がある。自立するまでの間も、かなり密着しながら成長を補助するカタチだ。

こういった違いが、言葉にも現れているらしいよ。アメリカでは子供を褒める機会が多くて、事あるごとに愛していると表明するし、ハグをしてそれを確認し合う。これに対して、日本ではもう少し距離感が遠くなる。あまり褒めないし、ハグもしないし、愛しているなんてことはあまり言わない。だって、幼少期から精神的な密着度がかなり近い。生活空間も生活習慣もいろんなことを共有することでコミュニケーションの距離を縮めているからだ。

食をコミュニケーションと捉えると、他のコミュニケーションツールとのバランスも影響してくるようなきがするんだよね。トータルでバランスを取っている感覚かなあ。言葉やハグみたいな行動はとてもわかり易いのだけど、これ以外にもたくさんあるだろう。

密であれば密なだけ良いというものでもない、というのが人と人とのコミュニケーション。だから、全てのコミュニケーションツールで近づきすぎるのは危険な気もするんだ。かといって、薄くなるとディスコミュニケーションが起きてしまう。このあたりのバランスって、ロジックで解明するにはなかなか骨が折れるのじゃないだろうか。

健康食という考え方は、現代の人類にとっても重要な視点ではある。だから、文化的な分脈と、新しい概念をどうインストールするかという話になりそうだと思っているよ。アメリカ発の発想を、コピペで輸入するのではなくて、文化文脈にあわせていく。そんな感じかなあ。

今日も読んでくれてありがとうございます。メチャクチャ壮大な視点での話なんだよね、これ。そのヒントになるものが、実は今までの歴史や文化の中に転がっているような気がするんだ。そして、正解にたどり着けない。正解なんて無いと思いながらも、それを探す活動そのものが今後につながるんじゃないだろうか。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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