エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 個食と共食。コミュニケーションの段階に拠るんだろうな。 2022年6月1日

2022年6月1日

宗教が入り混じっている文化圏では、フードコートが大活躍する。同僚同士が一つのテーブルに集って、「食事」という空間を共有する。けれども、食べ物はそれぞれの体質や好みに見合ったものを食べる。これもまた、食のパーソナライゼーションのひとつだし、コミュニケーションのあり方だよね。

食のパーソナライゼーションとコミュニケーションというのは、グラデーションなんだろうね。なんとなくそう思うんだよ。上記のようなシチュエーションでも、親しい友人や家族だったら「これ美味しいから食べてみて」ってシェアするってこともよくあるでしょう。そこには、宗教とか主義主張とかじゃないものがある。そんなことはわかった上で、それでも「美味しいものを共有したい」っていう本能が働くんじゃないかな。

日本でも、同僚同士でランチに出かけるときは個食だよね。定食屋さんに入ったら、銘々に好きなものを注文して食べる。ただ、同じテーブルを囲んでいるというだけのことだ。つまり、同僚同士の距離感というのは、そういうものだということになるよね。

翻って、家族で鍋を囲むときは食べるものが共有されている。同じ料理どころか、一つの鍋から取り分けて食べるわけだ。メチャクチャ距離感が近いよね。だから、少し親しい友人ともっと親しくなりたいときには、大鍋を突くのが王道になっている。より親しくなるきっかけにもなるからだね。ただ、これが煩わしいと感じる人もいる。いや違うな。相手によって、シチュエーションによって煩わしく感じるのだ。

会社の飲み会で、親しくもない上司と同じ鍋を囲むのが煩わしく感じるという、あれだ。ぼくら中年以上の人たちは、経験的に共食が親睦に繋がるものだと知っている。知っているつもりになっている。だから、部内のコミュニケーションをはかろうとして、共食をセッティングしてしまうのだろうね。

違うんだけどね。ホントは。コミュニケーションの段階があると思うんだよ。個食と共食の中間点があって、徐々に距離が縮まっていって、シェアになる。そんなふうにグラデーションになっているんだと思うよ。

そういう意味では、本膳料理のような銘々皿の料理は中間に位置するのかもしれないよね。基本的にみんな同じ料理を食べる。しかも、同じ量だったりする。という部分は少々困りものではあるかもしれないのだけれど。同じタイミングで提供されて、同じように食べる。

こうやって、文字で並べるととても面倒なやり取りに見えるな。しかも、お酒を飲むにしても、じゃあ同じものでってこともよくあるじゃない。同じなんだったら、ボトル入れようよってことにもなるしさ。そうなると、日本にはお酌文化があるからね。互いにさしつさされつということになる。

この文化がとても、面倒なことだと紹介されるメディアもよく見かける。実際に、若年世代に多いような文脈での報道だ。

なのだけれど、これはもしかしたらステップなんじゃないかな。親しくないとか、もしくは親しくなりたいと思っていない人にとっては、とんでもなく煩わしい。次のステップになんか進みたくないんだからさ。だから嫌だって言う。一方で、これから親しくなりたいという相手とだったら、このくらいのステップは楽しめるかもしれない。むしろ、早く通り過ぎて次の共食に進みたいと考えるかもしれないよね。

実は、日本で煩わしい古い文化と認識されがちな共食文化なのだけれど、これが他の文化圏でウケが良い。コミュニケーションとして素晴らしいとされているのだ。そもそも人類は共食の文化を持っているんだけど、この中間フォーマットが機能的だってことなのかな。そんなふうにも言い換えられるかもしれないね。

さあ、この食とコミュニケーションとのバランスや文脈を考慮に入れながら、食のパーソナライゼーションを考えていこう。アレルギーはしょうがないとして、好みまで完全にパーソナライズしてしまっても良いものだろうか。どうなんだろう。

シチュエーションを鑑みて、バランスをとることがポイントになる。ぼくにはそう見えるよ。

今日も読んでくれてありがとうございます。食のパーソナライゼーションについては、まだまだ思うところがある。ということで、気がついた時に書き出しておくことにしよう。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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