エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 現代アートの夜明けと、食産業の今。 2022年6月3日

近代から現代アートへの転換期は、アメリカで起きた。その流れが、とても面白いんだ。特に興味を持ったのは「マイク・ビドロ」というアーティスト。やることがメチャクチャで、作品がぶっ飛んでいるんだよ。

美術史に詳しいわけでもなんでも無くて、ちょっと聞きかじった程度なんだけどね。マイク・ビドロの話を聞いて興味を持ったので、ググってみた。代表的な作品が「This is a Not Picasso」。これはピカソじゃないっていうタイトルなんだけど、どう見たってピカソの作品の模倣に見えるわけよ。なんなのこれ。

他にも、これはポロックじゃないとか、ウォーホールじゃないとか、それぞれにそっくりに描いた絵を発表してるのね。これは、ピカソの模倣じゃないですか?いや違う。ピカソのサインがなく私のサインが入っているのだから、私の作品だ。

マイク・ビドロが始めたことはアプロプリエーションアート。日本語でいうと盗用芸術というそうだ。元々は、「美術の最先端になんとか関わって、そこに新しい何かを残したい」という志を持っていたんだって。でね。一生懸命いろんなことにチャレンジして、そのうちにこれだってモノを作り出すことに成功する。つまり、今までに誰もやってこなかっただろうと思えるようなオリジナリティ溢れる作品を作ったわけだ。ところが、達成感はそう信じていた間だけだった。よくよく掘り下げて調べてみると、途方に暮れることになる。自分が思いつくようなことは、とっくに先人の誰かが挑戦していて、しかも自分よりもはるかに優れた方法でやっていたのだ。

後に、マイク・ビドロはオリジナリティについてこう語っている。オリジナリティなんてものは、もはや存在しない。すでに出尽くしただろう。オリジナルだとか作家性だとかいったものは、単なる無知の産物でしか無い。

アートとして、恐ろしいことを言っている。

時代は1980年代頃のことだ。この時代は、アートがビジネスマインドと融合していった時代でもある。近代よりも前の時代の西洋アートは、宗教がモチーフだったし、それ以外のモチーフでもブルジョアジーや貴族から依頼を受けて作画するのが普通だ。そこから、アーティストが商業的にも自立する世界へ移行していって、より売れることを考えなくてはいけない時代。このビジネスマインドとアーティストとしての表現の葛藤が巻き起こっている時代でもある。

美術史の詳しいことは、ちゃんとした書籍を読むなり動画を見るなりして欲しい。ぼくの視点でしかないから。

興味深いなと思ったことは、この転換期が今この瞬間にやってきているという感覚があるからなんだよ。食文化という世界でね。マイク・ビドロや、その少し前のウォーホールやデュシャンの時代を合わせれば数十年の時間があるわけだけれど、平成から令和の食文化の世界もそうだなって。

工芸品がアートに昇華されて、それが商業的になっていって。アートを表面だけ模倣する「ゾンビ化」の時代を経て、そのアンチテーゼとして盗用芸術が登場する。

一生懸命にオリジナリティを追求して、これは創作料理であって唯一先端だってことを言おうとするんだけどさ。歴史を振り返ってみると、かなりたくさんの類似例があって、もっと上手に仕上げているなんてことも枚挙にいとまがない。最新の調理器具を使っているのに、結局過去の焼きましをしているようなこともありうるんだ。車輪の再発明っていうのかな。

これが、アートの世界と全く同じだということは無いだろうけれど、学ぶべきところはたくさんあると思うんだよね。思想を置き去りにしてフォーマットを模倣したゾンビ化から盗用芸術までの流れ。ここから脱却したのは、新しいマインドセット。一度、オリジナリティの喪失を認知して、そこから精神性や解釈の仕方によって現代アートへと進化するわけだ。

食産業や食文化の未来のために、今ここにいたるまでの文脈を知って、そのうえでもう一度無知なるものとして進化を遂げる必要がある。そんなふうに思えてくるんだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。美術史と食文化史は重なる部分がある気がするんだ。勉強してみようかな。他のジャンルからアートの文脈で再解釈をする。という行為自体がシミュレーショニズムだもんね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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