エッセイみたいなもの

今日のエッセイ ふたたび料理屋の存在意義を考えてみる。 2022年6月8日

会席料理や茶懐石料理、それから本膳料理といった伝統的な日本料理がある。この中では会席料理は比較的新参者だけど、それでも数百年の歴史が紡ぎ出してきた文化だ。ご飯と味噌汁という、究極的に日本食文化の根幹部分というのは、前述のすべての料理文化の源である。

さて、現代においてはこれらは古臭いものなんだろうか。はたまた、ただの贅沢品なのだろうか。どの部分が残っていくのか。淘汰されるのか。淘汰される可能性があるとして、それを守る必要のあるものなのだろうか。自然に任せてしまっても良いのか。

そんなことを、今日は考えてみようと思う。

贅沢な料理といえば、それはそうだろう。特に会席料理は宴会料理から派生したものだし、本膳料理は武家や公家などの特権階級の食文化だもの。それが、徐々に庶民の間に浸透していったということだけれど、金持ちの庶民のことだ。一般に広まったのはずいぶんと最近の話。高度経済成長期を越えて、日本総中流社会なんて妄想が現実味を帯びてきた頃の話だ。昭和後期ね。

こういった料理が高級なのは当然のことなんだ。使用している食材がまるで違う。質も違うし、種類も豊富。さらに、修練を積んだ料理人が手をかけ時間を掛けて調理している。全体の献立の構成だって、一朝一夕でバランスを整えられるわけじゃない。

パブロ・ピカソ。知っているよね。ある時、貴婦人から絵を書いて欲しいと頼まれたそうだ。ピカソは、その場でさらさらっと30秒でかきあげた。いくらですかと婦人が尋ねたところ、1万ドルだという。30秒で1万ドルとは高すぎるのではないか。婦人がそう言うと、ピカソは笑ってこう応えたという。30年と30秒ですよ。

この話が実際にあったことかどうかはさておき、創作についての真実を表していることは間違いないだろう。私達料理人がパブロ・ピカソなわけではないから、こんなに極端なことにはならないけれど、本質的な部分では同じだ。

こういった創作物を、見たり、触れたり、食べたり、嗅いだりすることは、良いことだろうと思うんだよね。それによって、心の豊かさを得るということは科学的に証明されたことだ。美しいものを見ながら喧嘩をする人は少ないよ。美味しいものを食べて満足したら、イライラも収まるよ。でしょ。

毎日じゃなくていい。当たり前か。毎日美術館に行ったり、絶景を見に行くわけじゃないもんね。たまには、そういう時間を儲けることだって、生活の中では大切なことだと思うんだ。旅行に行くのと一緒だよね。

こういう、一見非効率で、直接何かを生産しないもののように見えるモノが、実はとても人間にとって重要だってことだ。でね。これらは、正しく機能するためには一定のリテラシーが必要だ言われているよね。美しいものを作り出すリテラシー。これはもちろんだけど、感じるリテラシーが必要。数多くの美しいものを見ることで、そのリテラシーは育っていくんだ。

低いとだめだって言うわけじゃないよ。というか、誰でもなにか特定のジャンルではリテラシーが高いものだ。趣味嗜好っていうやつね。ということで、色んなジャンルで魂を豊かにする空間が用意されていることが大切だよってことになる。食はその中のひとつ。

リテラシーが低下していったジャンルは、少々困ったことが発生する。産業革命が起きたイギリスでのことが良い参考事例になる。アーツ・アンド・クラフツ運動が一段落して、いよいよ工業製品にデザインが持ち込まれ始めた。その頃のイギリスは、アートのリテラシーが低下しまくっていたんだ。王侯貴族を除いてね。フランスならブルジョアジーという金持ちがいて、フランス革命でアートが市民に開放されていたから、それなりにアートリテラシーに高い人達がいたんだけどね。

産業革命で、大量生産による資本主義の流れが加速していく。ライバルも増えていく、市場も飽和に向かっていく。そうなると、差別化が必要になるよね。はじめは価格競争をしていくのだけれど、限界を迎える。すると、高品質化に向かう。その時だ。商品のデザインが市場で重要になり始めるのは。

イギリスも国として、商品のデザイン向上を「経済のために」奨励するようになる。1837年にはロンドンにデザイン学校が創設されたくらいだ。

こうして、工業製品にデザインが盛り込まれることになった。ところが、イギリス市民は、商品の美しさにいは無関心だったのだ。リテラシーがないからね。良いものかどうかの判断ができない。背景には、イギリスの歴史が強く影響している。カトリックから分離したがために宗教画にふれる機会が少なかったこと。それから、ずっと国内がバタバタしていてアートどころじゃなかったこと。この2つがあると言われている。

この話からなにか感じることがあるんじゃないかな。社会構造が違うから、まったく同じ現象が起きるかどうかはわからないけどね。ただ、今現在持っている武器を捨てるっていうのはもったいない。

今日も読んでくれてありがとうございます。今日は話があっちこっちに飛んでしまったなあ。ぼくらは、文化の守り手でもあるし、リテラシーの担保をするものでもあるし、日本社会の武器をいつでも使えるように備えているものでもある。作り手も消費者もお互いにだ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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