エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 見せ方のはなし 2022年6月12日

元々営業職をしていたせいか、「見せ方」という表現をよく聞く。正直なところ、見せ方という言葉の表現からして、あまりイメージが良くないんだよなあ。中身よりも上っ面だけ取り繕ったようにも聞こえる。けれども、見せ方を工夫するということはとても大切な要素なんだよね。

身だしなみ。ぼくは、見せ方という言葉をこれに置き換えて表現する。例えば、婚活をしている男性がいるとしてさ。たまに聞く話なんだけど。見た目よりも中身を見て欲しいって言うんだよ。それはそれでひとつの真実だ。ただ、それはちょっと甘いんじゃないかと思うのだ。

見た目というのは、顔や肉体の美醜のことを指していっているわけじゃない。なくはないだろうけれど。どちらかというと、外見にもちゃんと気を使っているかどうかだ。中身を磨くことはもちろんのこと、外面もちゃんと手入れをする。この両面を整えるということだよね。ボサボサ頭で乱れていたり、洋服がヨレヨレだったり。そういうことは、ちょっとしたことで改めることが出来るんだから。

全てにおいて美を追求する必要があるかというと、そういうことではない。けれども、どのように受け取ってもらいたいかを表現することは大切な要素だと思うんだ。

料理屋だってね。一定以上の美味しさは必須。その上で、より楽しんでもらうためにきれいに盛り付けするんだ。刺し身だって煮物だってグチャグチャに皿に乗せただけだと、なんだか味気ないじゃない。上手い下手はあるかもしれないけれど、それなりに気を使おうよってことになる。

昨今は、文化財を観光資源として活用しようという動きが出てきている。今までは「保存」が中心だったけれど、ちゃんと楽しめるように活用しようとね。それは、訪れた人が行ってよかったと思うことが重要。そこにあるから勝手に見て。だと、ちゃんと味わえない。

歴史に疎い人が、史跡を訪れたとする。というか、マニアしかわからないようなことがあるんだから、ほとんどの人は知らない情報がある。どこが面白いのか。どの部分をみて、どのように面白がればよいのか。そのあたりのことには、多少のガイドが必要なんだろうと思う。

建物を見たってさ。ああ、古い建物だな。で終わってしまうのはもったいないじゃない。この部屋は藩主の執務室だ。居住空間じゃなくて仕事部屋。ここに座って、こんな景色を見ていた。それは座って見なくちゃわからない。それから、隣に部屋から声がかかって、家臣の相談を受け付ける。とかね。じゃあ、なんにもないときは、藩主は何をしていたんだろうか。この部屋で読書をしてたのだろうか。それとも、他の場所にいたのだろうか。なんてね。

美術館では、時々特別企画展を開催している。常設展とは別にね。特別展は、なにかしらのコンセプトがあることがほとんどだ。ゴッホだとかピカソだとか、目玉になる有名人の絵画を中心にすることもある。それとは別に、いろんなアーティストの作品を一つのテーマに絞って展示することがある。例えば、「春の花」をテーマにしたら、世界中のいろんな人の「春の花」を描いた作品を並べるわけだ。そして、それぞれのアーティストがどのように春の花を捉えていて、どのように描いたのかを表現する。だから、並べる順番も工夫するんだよね。

見せ方というのは、どの部分が面白くて、どこを掘り下げるかということを提示するということでもある。そのヒントを、言語と非言語を使って鑑賞者にわかるようにすることだ。

冒頭の話に戻る。人の身だしなみは、美醜だけのことじゃない。周囲の人が不快に思わない程度の清潔感と、その人の中身のどこが面白いのかを表現すること。そのようにも捉えられるよね。あえて乱雑なヘアスタイルにして丸メガネを掛けて、というふうにすると、なんとなく学者っぽい雰囲気を漂わせられるかもしれない。初見でそのイメージが伝われば、その人の面白いポイントが透けて見えるかもしれない。

中身をわかってもらうためには、それを伝える手段が必要なんだ。その手段は、言葉だったり行動だったりするわけだけれど、見た目もまたその一部だということだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。極端な話かもしれないけれど、結局のところデザインっていうのはそういうことなんじゃないだろうか。なんて思ったりもするよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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