エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「わかった!」という錯覚が面白い歴史。 2022年6月14日

学生時代に学んだ歴史のほとんどは政治だったよなあ。もちろんそればかりじゃないよ。ルネサンスだとか、ゴシックなんてことも授業で取り上げられたし、観阿弥世阿弥や東山文化も、千利休も教科書には登場するからね。出雲阿国もテストに登場する。なんだけど、ぶつ切りな感じがする。

まぁ、学生時代のぼくは歴史の授業が嫌いだったからね。特に覚えていないだけかもね。

今ね。食文化にかんする年表を作っているんだ。とんでもなく膨大だから、そう簡単には出来ない。たべものRadioにあわせて、ちょっとずつ書き足している感じ。かなり歯抜け。それでも、全体像を把握するにはとても有用だ。一見なんの関連もなさそうな事柄が、つながっているようにも見えたりすることがある。繋がっているかどうか、それについて言及されている書物もあるし、書物になくても自分なりに解釈することもあるし。間違っているかもしれないけれど、そのように見えるってことね。

もしかしたら影響があるかも。と感じたら、他にも類似の事例がないかと探してみる。決定的な証拠がなくても、状況証拠のようなものが見つかることもある。それは、登場人物たちの挙動からの推察だとか、その後の変遷だとかを見るとか、ゆるゆるとしたものだけどね。

何度もスシを例に出して恐縮だけど、わかりやすいのでスシを例にする。あるタイミングで、スシを小分けにするようになる。元々は、大きな桶で押し寿司のようなもの、コケラずしが主流だった時代。これを販売現場で切り分けていたわけだ。でも、それがめんどくさい。予め小分けにしておいたほうがやりやすい。ということで、小分けにして何かで包むという風潮が現れるのだ。

何かで包むとか、巻くというのがスシを現代のにぎり寿司に近づけた。その過程で、海苔巻きやいなり寿司や柿の葉寿司や鯖寿司やバッテラなどなど、様々に分化するわけだ。この流れね。

この背景は、なんだろう。と考える。そうすると、江戸という町の文化や、当時の経済状況や、政治体制にも目をやることになる。

世の中は政治だけで出来ているわけじゃないもんね。経済だけで成り立っているということもない。生活習慣や文化も含めて、いろんなものが相互に影響しあって動いている。数学で言うところのカオスにあたるのかはわからないけれど、計測不能なほどの複雑な動きをしてきている。二重振り子みたいなものだ。

このカオスにも見える複雑な社会。これを、理解するのはとても大変だ。理解したとしても、それが未来の予測に役に立つ保証はない。なにせカオスなんだから。だけど、抽象化してみるといくらかは参考になる。少なくとも考えるための素材にはなる。

よく見られるネット記事などでは、歴史を切り取って単純化していることが多い。それを言っちゃうと教科書でもそういう部分があるかもしれない。理解を進めるためには、最初は単純化して捉えることが良い取っ掛かりになるから、それはそれで悪くはない。だけど、ホントは複雑なものを複雑なままに理解することが重要なんだと思う。

そんな知識がなんの役に立つのか。学生時代にはそう思っていたし、今でもそう言う声を聞くことがある。合理的じゃないってね。

でも、そうじゃないんだよね。どのように活かすかは、学んだ人次第なんだ。というのが現在のぼくの解釈だ。知識のない状態で役に立つかどうかを判断するなんて出来ないだろうしさ。そもそも、経済的に役に立つかどうかだけで学びを止めるのは合理的じゃないとも思う。

こんなことが言えるのも、テストで高得点を採るというゲームがない世界にいるからかもしれない。純粋に学ぶことを楽しめるようになるには、テストが無い方が良いのかな。どうなんだろう。

今日も読んでくれてありがとうございます。人間にとって学ぶって楽しみなんだろうね。子供を見ているとそう思うんだ。新しいことを知ったり、出来るようになったりして喜んでいるもんね。ぼくも、そういう感覚で面白がって学んでいる。複雑な事柄が絡まっていて「わかった!」という気になっている瞬間が楽しいんだもの。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

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