エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「たべものラジオ」のこぼれ話。誕生のその前。 2022年1月29日

2022年1月29日

「たべものラジオ」のこぼれ話です。

今まで、語ったことがなかった「たべものラジオ」の誕生以前の話。

ラジオの本編やインタビューでは、誕生直前の話をしている。ぼくら兄弟を含めた家族が厨房で話をしている時に、食材や料理のルーツを歴史を絡めてぼくが話していて、それが評判だったから。とまあ、ざっくり言うとそんな感じね。

だけど、実はそれ以前の話があるんだ。

弟にもちゃんと話をしていない部分。

そもそも、なんでこんなに料理のルーツに詳しくなったのか。そもそも、なぜそこに興味を持つようになったのか。だ。

料理屋を経営していくことになって、そもそもの「問い」を立てるところから始めたんだよね。ぼくらのような「料亭」は、社会にとってどんな価値があるのか。ってね。

社会の足を引っ張るような存在だとしたら、なんだかやる意味ないし、そうじゃないとしても方向性を考え直さなくちゃいけないじゃない。どうせやるなら、社会の中で意味のあることを仕事にしたいと思っていたしさ。

二宮金次郎の報徳の話の中にも、贅沢や美食は慎むべし、余剰生産は恩送りすること、とちゃんと書かれている。美食は贅沢だったのだ。料亭なんてのは、完全に無駄というくらいの存在感だ。

というのは、二宮金次郎が生きていた幕末前の時代背景でのことだ。

現代だと、美食ってどういう存在なんだろう。もっと慎むべきものなのか。それとも、人類にとって良い価値を提供するものなのか。

この問いに対して、いろいろと考えたし、今ではポリシーにまで昇華していて、改めて言語化し直そうとしているところなんだけど、それは別の場でちゃんと表記することにしよう。

まあ、そんなことを色々と考えていると、「会席料理なんてのはこういう形式なのだ」とか「日本では昔からお茶は無料なのだ」とか、まあいろんなことを見聞きするんだけど、気になっちゃってさ。

ホントかよ。って。

でね。ちょっと調べてみたら、思い込みがほとんどだったわけ。お茶が無料で提供されるようになっていったのは、江戸の後期からのスシ屋で、日本料理店で緑茶を無料で提供するのが当たり前になっていったのは、昭和のバブル前後の話。全然古い歴史じゃない。最近のサービス競争の結果でしかないわけだ。

人間というのは、ついつい自分の経験を全てだと思いこんでしまう生き物なんだよね。

ぼくだって、最初の問いがなかったら調べることもしなかっただろうし。緑茶を無料で提供することが伝統だと思い込んでいたかもしれない。

そんなきっかけがいくつも積み重なって、その都度ググってみて、たまにweb掲載の論文を読んだりしているうちに、物足りなくなって本を買って読むようになって。あとは、最初の話につながるわけだ。

だからね。

今でも、人類にとって料理とはなにか、食産業とはなにか、食と社会のつながりとはなにか、を問い続けている。

そのための勉強をしているので、その過程を「たべものラジオ」というカタチで公開しているという部分もあるんだなあ。

今日も読んでくれてありがとうございます。これ以外にも意図があってやっているのだけれど、そっちのことはまた別の機会にでもお伝えしますね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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