「みりん」を「ソーダ」で割ると美味しいよ。という話を聞いたことがある人はどのくらいいるのかな。そりゃそうでしょうね。としか思わないのだけれど、知らない人からしたら「みりんって飲めるの?」ということになるらしい。
どうも、「みりん」は「調味料」という思い込みが先行しているみたいだ。確かに、スーパーマーケットでは「調味料」コーナーに置いてあるもんなあ。そう思っちゃうのか。
みりんは、そもそもお酒だ。
少し前まで「みりん酎」と表記していたくらい。焼酎をもっと甘味と旨味が強くてコクのある酒にしようと工夫したのね。メチャクチャ乱暴に言えば、焼酎に米麹を加えて熟成させるとみりんが出来る。こりゃうめえ。ということにはなるのだけれど、手間がかかるし材料も余計に使うから価格も高くて、一部の人達しか飲むことが出来なかったという高級酒。
それが、江戸時代後期になって少しずつ一般にも流通するようになった。それでも高級酒。この高級酒を取り扱うようになったのが飲食店だ。お客に飲ませるのだけれど、料理に日本酒を使うようにみりんを使ったらどうなるかってことをナチュラルに発想するんだよね。それで、甘味料としてみりんを使うようになっていく。
いずれ、たべものラジオでちゃんとやるか。
それにしても、思い込みって凄いよね。あるあるだ。味噌だって調味料だと思っている。元はと言えば食べていたわけだし。ビールだってお粥だったし。まあ、そこまで行っちゃうと原型が残っていないから別物だけど。
偏見というと言葉が悪いかもしれないけれど、ぼくもあなたも偏見の塊だ。言い換えると、それぞれの世界観を構成しているものだね。人間って偏見で生きているものだろうから、それで良いんだと思う。
個人的な好みだから、どうでも良いことだけど。ぼくね。自分の世界観が壊れる瞬間が好きなんだよ。思ってたのと違うってことに出会って、自分の世界観がひっくり返るのが楽しい。これは、多分生理的なレベルでの好みだね。人によっていろいろあるでしょ。スカッとする瞬間。それが、ぼくの場合は「自分の世界観がひっくり返る」瞬間だってこと。
偏見を壊してそれまとは違う世界観を構築し直すのは、はっきり言ってめんどくさい。めんどくさいのだけれど、楽しい。趣味には労力かけるでしょ。それね。で、ぼくにとっての「学び」とは、「崩壊」を意味している。
「学ぶ」のイメージは、積み重ねていく感じがしない?足し算やって九九を習って、それから桁が増えていって。そういう部分ももちろんあるし、土台になる基礎学力は積み上げないとどうしようもない。ある程度までやっていって、その先で「そもそも1とは何だ?」とか「実はこの方程式は、厳密にはちょっと違う」とか、そういうことになったら、いろいろと崩壊するよね。
崩壊したあとに、再構築をしてみると今まで見えなかったことが見えたりして、これがまた面白いんだよね。そしてそれが、他の学問領域と繋がっていたり、抽象化してみたら概念が転用できたり。伏線回収みたいな感じがしてとても愉快だ。
今日も読んでくれてありがとうございます。なんだか趣味の話になってしまった。目からウロコの瞬間が好きなんだよね。自分で気がついても、誰かから聞いても、どっちも面白い。