エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 「料理はアートで実用的」を言語解釈してみた。 2021年7月21日

2021年7月21日

「料理」や「食文化」というのは、とても興味深い。とても実用的でありながら、一方でとてもアーティスティックな面も持ち合わせているよね。そのうえ、調理自体は化学の集大成そのものだし、膨大な実験データの集積でもある。いろんな側面から語ることが出来るのだけど、どの側面から見ても正しく「料理」「食文化」を表すことが出来る。

商売としての料理屋も同じように考えると、とても輻輳的だと言えるかな。売上を考えれば、どんな料理が人気が出て、利益率がどのくらいで、調理効率や工程を減らしたり、仕入れロスを減少させたりと「数字」に置き換えて考えることもある。そりゃビジネスだから、この観点をゼロにしてしまったら成立しなくなってしまう。なんだけど、やっぱりアーティスティックな部分が必ずついてまわる。

外食産業のうち、一定の割合では「エンターテイメント」の要素を多分に含む業態だと言える。要は、楽しむための食事ということね。ただのエネルギー摂取ではなくてさ。そもそも料理という行為が「楽しみ」要素を持っているというのも面白い現象なんだけど、まあそれはさておき。
この「エンターテイメント」要素が全くなくなると、それがそのまま売上の低下につながることが分かっているからとても興味深い。

エンターテイメントをアーティスティックな「感性に訴えるもの」とすると、経営などに絡む数字はサイエンスで「ロジカルに組み立てるもの」にあたるのかな。この両方のバランスは、どんなビジネスでも大切なのだとは思うけれど、常にゆらぎながらせめぎ合っている商売のひとつが飲食業界だと思う。他にもアパレル産業とか、家具だとかも同じかな。どうなんだろう。
絵や音楽はアートの世界だ。もちろん売れる売れないといった部分もなくはないだろうけれど。それでも、実用性とは縁がないよね。人の心に働きかけるものだ。絵を持っていると便利だとか、寒さをしのげるとか、お腹がいっぱいになるとか、そんなことはないわけです。
パソコンが手元にあるととても便利だし、こうやって文章を書いたり編集したり、それを保存したり、もうとにかく実用的。だけど、パソコンを飾って鑑賞することで心が豊かになったり、楽しい気分になることは、大抵の人には無縁だよね。一般的に。

今日のエッセイを読んで、とてもフワフワした感覚になる人もいるかも知れない。そんな感じの文章になっちゃったなあとは思っているんだけれど、ぼくの感覚はまさにそれなんだよね。普段の仕事が「アート」と「サイエンス」の間をフワフワと漂いながら、その時々でバランスが自然と変わっていくような感覚。伝わるかなあ。ぼくの中でもちゃんと言語化出来ていない領域のものを、「書く」ことで整理してみようと書き出してみたんだけど、やっぱりフワフワとした感じになってしまっているよね。

事務所で経営を中心に行っている時はサイエンス的に左脳で判断していて、調理場で料理を作っている時はアーティスティックに右脳で動いている。と言う具合に、スッキリした「自分の使い方」が出来たら楽なのかも知れないけど、実はどっちの場所にいても両方の脳をフル回転させることになってしまうんだよね。もちろん、計算や論理思考を積み重ねる時は左脳が優位なのかも知れない。けどね。そもそも「企業理念」とか「夢」とか、これから何をしたいのかという「思い」の部分はアートの世界の産物なのだ。美意識といっても良い。美意識。いいなこれ。こっちの表現の方がぼくにはしっくりくるかも。とにかく、アートを実現するための方法としてサイエンスが存在するということが言えるのだから、サイエンス的に経営戦略を考えているときだってアートの部分と常時見つめ合っていなくちゃ進まないわけだ。

結局のところ、バランスが大事ってことに帰着させちゃって良いのかなあ。ううむ。と、こうやって考えている時点でもはや意味のない問答なのかも知れないけどね。時々自分の思考を言語化してみたくなるのですよ。それで、はっと気がつくことだってあるしね。

今日も読んでくれてありがとうございます。どうということはない。ぼくがぼくの中でもやもやしたものを吐き出しただけの回です。付き合ってくれてどうもありがとう。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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