「明日ね。ばぁばに、イチゴもらったの。」と娘が言う。日本語の文法としてはおかしいよね。未来のことなのか、過去のことなのかよくわからない。まぁ、親であるぼくらは文脈から昨日のことだと推察するわけだけれど。
娘に限った話なのかどうかはわからないのだけれど、どうやら「昨日」と「明日」をどちらも「明日」と言いがちなのだ。ただの間違いといえばそうだ。社会生活の中でとても不便なので、「そういうときは昨日と言うんだよ」と教えるよね。
何度か教えているのだけれど、よく間違える。まだ3歳なのだ。それは仕方がない。だから、何度も同じように教えるのだけれど、これがぼくにとっては、とても興味深いことに思えるのだ。
彼女にとって、昨日も明日も「今日より一日離れた日」と捉えているのかもしれない。だから、何度も同じ言い間違いを繰り返すんじゃないかとね。
一般的な時間の解釈。例えばプレゼン資料を見ても、教科書の年表を見ても、だいたい左から右へ流れている。右から左でも上からしたでも構わない。つまり、一方通行の矢印みたいな感じで線が引かれていて、その上を進んでいる感覚。
だから、「昨日」は「過去という長い時間軸の中の一部」に溶け込んでいて、「未来」である「明日」とは明確に違うものだと区分する。なんだか難解な表現になってしまったけれど、言葉にするとこんな感じで捉えていることが多いんじゃないだろうか。
娘のような時間の捉え方は、まったく違うってことになるよね。「今」という瞬間を起点にして、未来と過去の両方に時間軸が流れている。池に石を投げ込んだ時にできる波紋みたいなものだ。どちらが前か後ろかわからない。というか、水の波紋に後ろも前もないわけだから。
波を届かせたい対象物があるときに前後が生まれる。そうだな。例えば、池のどこかに葉っぱが浮いていて、その葉っぱを波の力で動かしたい、という目標物があるとき。葉っぱに向かっている波を前として、反対側を後ろと呼ぶ。目標と観察者がいて、はじめて「前と後ろ」が生まれるという感じだろうか。
なにかの本で読んだか聞いたかしたのだけれど、原因は結果があってはじめて原因になる、ということがあるよね。たしか東洋哲学かな。仏教哲学だったかも。量子力学だっただろうか。忘れた。そもそも、こういったことに詳しいわけでもないし。
ちょっとばかり、似ているような気もするというだけの話。
ぼくらが、未来を志向しているから未来を前と考えている。だから、そこに「過去」という概念が生まれる。とも捉えられるのかもしれない。客観的に見れば、過去に原因があるから未来に結果が生まれるはずだ。逆はたぶん無いように感じている。だけど、未来において結果が誕生しなければ、今ここでぼくが文章を書いていることそのものは、なんの原因にもなりえていない。ということは、未来から定義されるわけだ。つまり、過去も未来も相互に作用しあっているとも取れなくもない。
やばい。こんがらがってきた。
無理やり進めるか。前後がない世界というのは、目標物が存在しないということだと仮定する。とすると、時間が波紋のように広がっていると捉えている人は、どのように時間というものを解釈しているんだろうな。未来とか過去という目標物が存在していない。ということだから、今ここ、現在に集中するということか。なのか?すっごい概念的で、ちょっとばかり哲学的な話に飛躍してきてしまった。どうなんだろうか。
今日も読んでくれてありがとうございます。ネット検索したらたまたま見つけたのだけれど、どこかの国の言語で娘と同じような表現をすることがあるらしい。昨日も明日も同じ単語なんだって。不思議だよね。波紋の解釈が基本の文化もあるんだ。