本当はもう少し「食」についてのことを書くのが良いのだろうけど、せっかく書き始めたので昨日の続きです。
「沈黙は金、雄弁は銀」ってホントかなあ。を掘り下げていこうとしたら、そもそも「自分の意見」を構築することが大切だよねということになった。で、「自分の意見」はどこからやってくるのかを「学問のすゝめ」をガイドとして、ぼくなりに思考を重ねてみた。
前回はここまでね。
「自分の意見」が発生した。というところまで至ったら「議論」をしなさいと福沢諭吉は言っている。議論とはどんなものを指しているんだろう。福沢諭吉はアメリカやヨーロッパ諸国を見ているから、当時の議会を目にしているかもしれない。だとすると、フランス革命後のヨーロッパでの「激しく議論を交わしている姿」を念頭に置いたのかもしれない。
その辺りは、時代も違うことだからこだわらなくて良いと思うんだよね。とにかく、複数の意見を持ち寄って「お互いの意見を高める」ことが大切なんだってことね。ひとりで考えていると、どうしても考え方が偏ってしまったり、観察も見落としがあるだろうから、互いに補おうという姿勢を求めているんだろうね。
あまり、自分たちの国民性を言うのは好きではないけれど、この「議論」「ディスカッション」「対話」などど言われるものは、どうも日本人は下手だよね。意見そのものじゃなくて、「人」にフォーカスしてしまう。歴史的に聖人君子を支配者に置きたがる傾向がそうさせているのかな。詳しいことは知らないけど、なんとなく東アジア圏って、そういう傾向があるもんね。ディスカッションは「意見のこの部分が違うと思う。なぜならば~」が基本で、「君は間違っている」ではないからね。
「建設的な議論」という表現自体がとても日本的なのかもしれない。そもそも「議論」は建設的なもののはずだから、あえて「建設的」と形容詞をつけなければならないのが現状ってことなのかな。個人攻撃みたいになっちゃうんだろうね。
さて、ここにきて「雄弁」という言葉が少しずつ意味を持ち出した気がするよ。議論をするためには、適切に意見を発信しなくてはいけない。黙ったまま議論するのは、まあ無理だね。だけど、明治頃の日本は黙って議論してたらしいんだよ。書面だ。文章に書き起こして、それを他の人達に読んでもらって、そして意見などもまた書面で返してもらって。そんなことをやっていたらしい。なんともまどろっこしいわ。だけど、現代でもこの習慣が残ってるもんね。行政では書面に「文章」を起こして庁内を巡らせているし、大手企業でも「稟議書」というものがある。
書面でもある程度の議論は重ねられるかもしれないけれど、深く深く掘り下げていくことに関しては不向きなんじゃないかと思うよ。
そもそもレスポンスが遅くなるから、間違った方向に行きにくい。これは一見良いことのようだけれど、ずれた方向性の意見も必要な存在だ。思わず笑っちゃうようなアイデアからイノベーションが生まれることだってあるからね。すこし熱を帯びてくると、人間って動物はアドレナリンが出るでしょ。その効能で、思いも寄らない思考が活性化することだってあるしね。議論というのは「1+1」を3にも4にも膨らめていくための場だってことになるか。
一方で書面でのやりとりは「検証」向きだよね。じっくり腰を据えて見極める。つまり「間違い探し」だ。だから、建設的に次のステップに推し進めるというよりは「間違いを指摘」して「間違った方向に行かないように」機能する。
このふたつの状態を見比べてみれば、いかにして「意見を口頭で伝える」ことが重要なのかがわかる。自分の意見があますこと無く正しく伝わること。まずこれが出来たうえで、無用な対立構造を作らない表現を駆使する。だということを考えると「雄弁こそ金」ということになると思うんだよね。そうであって欲しい。ただ、これには条件が付帯する。あくまでも「建設的な議論」が可能であって、「個人攻撃」は無いという環境が必須だ。この議論をきっかけに、グループ間で攻撃し合う関係が長時間続くようなことになるのであれば、ディスカッション自体が機能しないもんね。
そういうことがとても多かったからこそ「沈黙は金」ということになったのかもしれない。
今日も読んでくれてありがとうございます。弁論術、プレゼンテクニック、スピーチ術、いろいろいい方はあるけれど、何にせよ会話で考えを伝えるのが大切ってことね。アリストテレスの時代からリベラルアーツの中にあるってことも、なにか人類にとって必要な能力だと言われているような気もするね。