学習のやり方は人によって様々。なんの根拠もないけれど、それぞれに自分にあった学習方法があるようなきがするんだよね。ぼくにはぼくなりの。だ。
「たべものRadio」の原稿を書くことは、いわゆる学習作業そのものなんだよね。そして、今のところ現在の学習方法が自分に合っているような気がしているんだ。学生時代には自分に合った学習方法なんて分からなかったし、そんなものを意識したこともなかったんだけどね。なんだか、無意識に現在の方法になっていったんだ。それを紹介して欲しいというお声を頂いたので、今日はちょっと紹介してみようかな。
いろんな立場の視点からモノゴトを眺める。
これは、ホントによくやる。小説でもドラマでも歴史でも、何でも良いのだけれど、主人公から見ると意地悪な人に見えるけれど、相手にとってはまったくそうじゃないということがある。これを、拡張してる感覚はずっとあるな。
ざっくり言うと、庶民にとっての米と、武士にとっての米とかね。米だったら、食料としての側面は当然だけれど、食文化や生活や技術という側面もある。それに、精神的というか捉え方みたいな側面もあるだろうし、経済面もある。さらに、米という植物側から見てみるとかね。気候変動やら地震災害なんかもあるしさ。人間に育てられて食べられる運命じゃない。これって個体としてどう感じるのかな。米という種を擬人化したらどう感じるのかな。なんてことを繰り返し眺める。
さらにちょっと拡張する。同時代の、他の食べ物や飲み物を登場させるんだ。ドラマの中に、他の物語の主人公が登場するようなものだ。そもそも、ドラマは他の登場人物がいたほうが面白い。でね。やっぱり他の登場人物の立場で米を見るんだ。そうすると、ちょっと違った物語に見えたりするから。
これを踏まえた上で、ストーリーを考える。ストーリーって、そこかしこに転換期というか、ポイントになる部分があるじゃない。別に派手な事象じゃなくてもいいんだけど、勝手にピンを刺しちゃう。で、それぞれのピンを繋いで、その間にあるストーリーを妄想する。
これね。わざわざストーリーを妄想しなくてもちゃんと文献に書いてある場合もあるんだ。それでも、わざと欠落させた状態で妄想するんだよ。まぁ、書籍には書かれていないことも多いんだけどさ。この場合の妄想っていうのは、ストーリーの仮説だよね。いくつかのパターンがあるんだけど、自分にとって最もしっくりくるものを一つ選ぶ。で、そのストーリーを裏付けるための飼料を探しに旅に出るのだ。
ストーリーがある程度出来ていると、どんな情報を集めればよいのかという見当をつけやすいんだよね。それに、問を立てやすい。既存の説に対しても「ホントにそうか?」って懐疑的になれる。「そんな無茶なことってあるのかよ」みたいなね。で、何かしらの答えが見つかるから。というか、見つかるまで頑張って探すんだけどさ。
基本的にこの二つをやり続けている感じかな。
あとは、ここにもう一つのエッセンスを加える。たべものRadioの場合は、聞き役の拓郎がいるし、リスナーさんもいる。たくさんの思考方法が存在しているってことね。情報をインプットして、その後の挙動がみんな違うじゃない。ひっかかりポイントも違うだろうし、思考する順番だってもちろん違う。これを頑張ってトレースする。この人だったら、ここが気になるだろうし、こういう思考回路で解釈するだろうなって。好みとかさ。
これは、わかりやすくするために聞き手に寄り添うっていう意味でも有効だと思うけれど、実はそこが本質じゃないんだ。学習方法っていう意味ではね。ぼく自身が、いろんな思考パターンをなぞることが出来るようになるってこと。いろんなパターンを持っていると、同じ情報でも違った解釈にたどり着くことが出来るじゃない。
ホントは、対談したほうが面白いんだけどさ。それを一人でやってるってことだよね。
今日も読んでくれてありがとうございます。インプットをするにしても、雑多に入れるだけだと理解しにくいんだよ。どんな絵になるのかを想像しながらパズルのピースを埋めていく感じ。その過程で、新しいおもしろポイントを見つけちゃうから、またたびに出てタイヘンなことになってるんだけどさ。