エッセイみたいなもの

今日のエッセイ ぼくの料理に対する世界観は。 2022年5月26日

2022年5月26日

昨日の話の続きね。料理人としての「世界の切り取り方」のはなし。どんな世界観を表現していくかってことだ。こんな表現をすると、なんだかアーティスティックなことに感じてしまうかもしれないけれど、そうばかりでもないと思うんだ。

ファストフードだって、とにかく安くて早くてお腹いっぱいになるっていう世界観を描いているわけじゃない。牛丼チェーン大手も、かつての築地市場の場内で市場で働く人や買付にやってくる人のための店だったんだ。その頃とは違ってきているだろうけれど、それでも根幹にある世界観は「労働者のための」が冒頭につくものなんだと思う。

利益最優先の飲食企業だってあるよ。それも、食の世界をそのように切り取って解釈しているっていうことだよね。同じ食材でも、見方によって調理方法も手の掛け方もオペレーションの組み立て方も、メニューの展開も、何もかもが変わってしまう。家庭においても同じように、世界観が現れていると思うよ。もちろん、そのどれかが高尚でそれ以外は駄目だということは無い。いろんな世界観が存在しているというだけのこと。食べる人もつくる人も、どんな世界の切り取り方を楽しいと感じるのかってはなしになるよね。

さて、その世界観というのは誰のものだろうか。当たり前だけれど、料理を企画する人だ。厳密には調理する人とイコールではないんだよ。家庭や小型店だと、企画する人と調理作業を行う人はおなじになることが多いかもしれない。その場合はイコール。だけど、子供がお母さんの炊事を手伝うときは、「お母さんの食の世界観」を子供がサポートする形になる。言葉は悪いけれど、再現するための作業員になる。

実は、世の中の多くの調理場はこのフレームで稼働している。オーナーシェフや親方が描く世界観があって、そこで働くスタッフは作業員である。もちろんこれは言いすぎだ。お店によって差があるけれど、何割かはスタッフの世界観が混ざっている。というのは、実際に調理作業を行うのはスタッフだからだね。それに、親方から信頼されるレベルの板前であれば、相談しながら世界観を作り上げていくこともあるはずだ。

ただ、その比率が小さい。親方の示した世界観が8割を超えているというケースが多いように思う。実際に名店と呼ばれる老舗の方とお話をしていると、それが普通なのだ。

これは、とてもうまく機能している。当然だ。料理以外の世界でも同様だろう。アーティストの描く世界観があって、アシスタントはあくまでもアシスタント。だから、アーティストが細かくチェックして指導修正を行うわけだ。

ここからは、ぼく個人が目指している世界観の話にうつる。基本的には、同じフレームで稼働させたいと思っている。ぼくが描く世界観をスタッフのみんなに表現してもらいたいのだ。ただ、このフレームを一回り大きいもので稼働させたいんだよ。

ぼくが設定する世界観は、料理じゃない。人類にとって食事とはどういうものか。ってことなんだ。掛茶料理むとうで食事をしながら過ごす時間は、どういうものであってほしいか。みんなとすり合わせをしながら、世界観を構築していきたい。そのうえで、献立はみんなで考えて作りたい。次のお客様の情報をみんなで共有して、全員がアイデアを持ち寄る。

例えば担当を割り振ったりしてさ。前菜はこんな感じでいきたい、焼き物はこんな内容でどうだろう、だったら間に口直しを入れたら良いんじゃないかってね。まぁ、みんなが好き放題にやってしまうと、一貫性がないというか、ストーリーがばらばらになっちゃうんだけど。だから誰かがファシリテーターになって、最終決済をしなくちゃいけないよね。そこは料理長が担うんだろう。

チームで描く世界観。そういうスタイルの料理屋があっても面白いと思うんだよね。なぜ、と言われると困るんだけど、ただ単純にぼくがワクワクするんだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。サッカーみたいなチームスポーツをイメージしてる。一つのゴールに向かって、それぞれがクリエイティビティを発揮していく。人が入れ替わったら、世界観が少し変わる。そんな表現ができる世界がぼくの世界観。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

-エッセイみたいなもの
-, , , ,