「たべものRadio」をやり始めて、気がついたことがある。ぼくは、どうも質を追求しがちな性格らしいのだ。そこまでやらなくてもいいのに。ということをやる。自分でも余計なことをしているよなあと思うんだ。本に書かれている内容でも、「へ~そうなんだ」と思って先に進めば良いところを、「どういうこと?腹落ちしない」となったら、とりあえずググってみる。足りなければ、関連書籍を探したり、論文を探してみたりする。最終的になんとかわかってきたら嬉しくなるんだけど、番組内で喋っているのはほんの30秒程度だったりするんだ。蛇足にも程がある。
けれども、一歩先まで踏み込んで理解しているからこそ、一定以上のクオリティーを保っているのかもしれない。
クオリティコントロール。一度上げたクオリティーはなかなか下げられない。ということをよく聞く。わかりやすいところで言えば、生活水準なんかがそうだよね。一度上げてしまうと、下げるのには苦労するって。
現代の日本に住んでいたら、余程のことがない限りハイクオリティーな生活を追い求めなくても充分に幸せな生活を送れるはずなんだけどさ。
生活水準の文脈から、食生活につなげてみる。一度「おいしい」の基準点を上げてしまうと、それより下回ったものは全部マズくなってしまう。そう感じてしまうってことがあるよね。食材が高級だとか、調理技術なんてことも影響するだろうけれど、安くても良いから品質の良い野菜が当たり前になると、質の悪い食材では満足できなくなっちゃうんだって。
ぼくの周りには、何人か港町出身の人がいる。彼らは、日頃から新鮮で状態の良い魚介を食べて育ってきている。だから、ほんの少しでも生臭さがあると、鼻についてしまうんだ。たしかになあ、静岡県民はお茶にうるさいというのも、そういうことなんだろうな。
もしかしたら、いわゆる美食のようなものは幸福の回数を減らしているのかもしれない。何を食べても美味しいという人、基準点が低いという人のことなのだけれど、そういう人はいつでも「おいしくて幸せ」なのかもしれないよね。
これをひっくり返して考えると、全員が常にハイクオリティーの食材の料理を食べていたら、やっぱり同じように「いつでも幸せ」なのかな。どうなんだろう。少なくとも、前者よりも幸福の全体量は上がりそうじゃない?
ただ、そもそも「いつでも幸せ」というのは、その幸福に気が付きにくいってこともあるよね。幸せは常態化してしまうと、当たり前になって気が付かない。そんな話は世の中のそこらじゅうに転がっているんじゃないだろうか。日本という国に生まれた事自体がホントはラッキーなことなのに、それを感じるためには他の国だったり、昔のことを引き合いに出して比較してみないといけなかったりする。
ということは、いや、どういうことだ?
クオリティーの低い食材や料理も必要だということになるのかな。料理って、あくまでも感じるものだし、味わったら消えてしまうものだ。だから、過去の料理なんてものは、いくら知識として知っていても、感覚的に違いを感じられるものじゃないからね。だから、自分が生活しているコミュニティーの中に、比較対象があることが必要なのだろうか。
あ、多様性を担保しているってことになるのか。人間コミュニティにとって、必要な多様性。おお、なんだか重要な役割を担っているようにも見えてきた。ミーム学と照らし合わせて考えてみたら面白いかもしれない。と言っても、それを深く勉強する時間が足りないのだけれどね。そのうち勉強してみたいとは思っている。
今日も読んでくれてありがとうございます。結局、何の話かわからなくなってしまった。とりあえず、リスナーさんの求めるクオリティーのことは考えないことにしよう。ぼくの主観で、面白いと思えるところまで掘り下げる。そんな感じでやろうかな。