「どこからどこまでがそれなのか。」
さて、いきなり禅問答のようなことを言い出してみた。実は、まさに禅問答そのものなのだ。
ぼくはぼくだし、あなたはあなた。ぼくは魚じゃないし、ご飯でもない。そりゃそうだよね。間違いない。そう思っていたのだけれど、ホントにそうなの?って言うんだよ。
もう全然意味がわからないでしょ。
その魚は海を泳いでいる間は、間違いなくあなたじゃない。焼き魚になって、目の前に置かれているときもあなたじゃない。
口に入れたら、それはあなたの一部なのか。いや、まだ違う気がする。咀嚼して飲み込んだらどうだ。もうあなたの中に取り込まれてしまっているよ?
消化して細胞と同化したら、その魚やご飯はあなたになるのだろうか。胃や腸にあるときは一体どうなのだ。
髪の毛を切るとしよう。切り落とされた髪の毛は、少し前まであなたの一部だった。
切り落とされたら、それはもうあなたの一部じゃなくなったよね。美容室や床屋では、かつてあなたの一部だったものを無造作にゴミ箱へ放り込む。このことに何も感じないのは、あなたが髪の毛を自分自身だと感じていないからだ。
さて、あなたの一部を切り離したあとの残った部分。髪の毛を切ってさっぱりしたあなたは、本当にあなたなのか。つい先日私があって話をしたあなたと同一人物と言えるのだろうか。
他のものでも考えてみよう。
目の前にラーメンがある。そこからチャーシューを取って食べてしまおう。まだラーメンだね。メンマも食べてしまう。残った部分はまだラーメンだ。スープを飲み、麺をすする。ちょっとずつ「ラーメン」は「解体」されていく。
いったい、どこからどこまでの段階がラーメンなのだろう。
麺だけがあっても、それはラーメンの麺であってラーメンじゃない。スープはあくまでもスープだから、単体ではラーメンと呼ばない。いくつかの要素が揃って、はじめてラーメンなのだ。チャーシュー麺なんか、チャーシューを食べきった時点でチャーシュー麺とは呼べないだろう。
「どこからどこまでがそれなのか。」
を突き詰めていくと、
「あなたはあなたなのか」
という問いになっていくらしいよ。
たしかにね。細胞レベルや元素レベルで考えたら、もう意味がわからなくなってくる。いろんな要素が集まって人になる。あなたはあなただと勝手に認識している。
だけど、よくよく考えたら個体として確定されたあなたなどいないのだ。と。
いや、理屈はわかるのよ。確かになあと。
でも、ぼくらは自分が存在すると認識しているじゃない。だって、ここにいるんだもん。
その出発点を変えると、つまり禅問答で得た感覚に置き換えると、世の中が少し違って見えてくるよ。ということを2600年くらい前に釈迦が言ったようだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。このことを考えると、いつもふわふわした気分になるんだよね。このフワフワ感をシェアしたいだけのために書きました。