調理をデータ化して科学にする。こういう取り組み自体は、きっと世界中のあちこちで長らく行われてきたことだろう。と、勝手に思っていたのだけれど、意外にもそうでもないらしい。大手の食品メーカーなどでは、味を科学的に分析していたりするみたいなんだけどね。キッチンのある現場ではあまり語られない。
メチャクチャ簡単なところだけれど、個人的には応用していることもある。
例えば、塩味の濃度。吸い物だとか煮物だとか、まあ色んなところで出番があるのだ。基本の塩分濃度を0.8~0.9%としておく。0.9%というのは生理食塩水の塩分濃度だよね。体の塩分濃度に近いと、人間は美味しく感じやすい。ということを基本においておく。そこから、前後させるわけだ。
たくさん汗をかくような気温だったり、旅行でいらしたお客様だったら来店前に歩いたかどうかだったり、法事だったら墓参りで汗をかいたかだったり。そういうことを想像できると、少し塩分濃度を上げたらちょうどいいということが予測できる。普段から肉体労働をしている人なら、日常的に塩分を接種していないと体がついてこない。そうすると、結果的に濃い味付けを好むようになる。とかね。
あとは、ご飯やお酒とのコンビネーションも考えるかな。口中調理と呼ぶような、おかずとご飯を一緒に口に入れて食べることがあるでしょう。その場合は、ご飯と混ざり合うことで塩分濃度が下がるよね。だから、少し濃い味付けにする。これは、お酒を飲むときも一緒だね。塩分濃度が濃い分だけ喉が渇くから、そこにお酒を飲むとちょうどよいって。やり過ぎると塩分過多になってしまうけれどね。
そんな場合には、うま味と香りを活用する。この二つがしっかりしていると、塩分濃度を高くしなくてもしっかり味を感じることが出来る。結果として、塩分摂取量を下げることが出来るってわけだ。
実は、こんなことを理屈で語らなくても随分古い時代から調理の基本に組み込まれている。理屈ではなく感覚で伝えられてきているのだ。具体的な作業として伝承していて、体系化されたものが料理の基本になっている。とは言っても、その基本らしきものが日本中に広まっていったのは近代以降の話なのだけれど。
こうすると、必ず美味しくなる。そういう感覚でレシピが広まっていく。それはそれでとても良いことだ。集合知となって、時代とともに洗練されていくわけだからね。ただ、ちょっとした弊害もある。このレシピこそが完璧という解釈になってしまうことがあるからだ。ホントは自由なのに、読み手が勝手に自由度を下げてしまう。最近のレシピサイトでは、これが正解という表記もあるのだけれど、料理に正解なんて無いのよ。正解があるから間違いが発生する。基本はこうだけれど、他の料理とのバランスや食べる人のことを考えたら、違うやり方をしたほうが合うってことだってあるでしょう。
基本を基本としてしっかり学ぶ。そして、それをどのように使いこなすかは、個々の楽しみの範囲なのだ。ちょっと不便なのかもしれないけれど、不便さを残しておかないとつまらなくなってしまう。90年代には、完全食を作ろうという動きがあった。今でも、無くなっていはいないのだけれどね。それはそれで良い。だけれど、70億人全員がそれだけを食べていれば良いという風潮になったら、世の中はちょっとつまらなくならないだろうか。
データ化や機械化を進めるという話になると、この部分が懸念として必ず持ち上がってくる。ぼくは悲観的な感覚はないけれどね。だって、世界中が画一的に同じものを食べるなんてことはあり得ないから。風土も歴史も文化も違う。歴史を見れば、いろんな味を楽しむために人類がどれほど貪欲に戦ってきたかがわかる。ひどいときは戦争まで仕掛けているのだ。だから、食文化が無くなることはない。
エントロピーの法則が当てはまるかはわからないけれど、食文化は拡散していくからなあ。一緒にはならなくても、今までとずっと同じってことはないだろうね。守るというよりは、進化を楽しむって感覚。
とこんなところまで書いてきて、思うことはひとつ。テクノロジーやそれに付随した産業が食の世界で勃興することは容易に予想ができる。それは、もう世界の潮流として始まっている。その際に大切なことは、ソフト面のケアだろうってことだ。ハードが進化したら、必ずそれを操る人の進歩が求められるからね。
今日も読んでくれてありがとうございます。「たべものRadio」のお茶の近代史を聴いてもらうとわかるのだけれど、どの社会でもだいたいそうなのだ。どちらか一方だけが進歩すると、バランスを崩すのが世の常のようにも見えるんだよね。両輪なんだろうなあ。