たべものラジオの原稿を書くにあたって、この半年間はよく歴史を学び直すことになった。この楽しさを学生時代の自分に教えてあげたいよ。もう少し見方を変えたら、勉強ってこんなにおもしろいのよって。
それにしても、学生時代は歴史の授業が苦手だったし、テストの点数だって平均以下だった。化学や物理とか数学は比較的得意な部類だったんだけどね。なんでだろう。答えがはっきりしているからかな。そう言えば、国語のテストで、納得いかないことがよくあったな。
テストだと、4択だったりするじゃない。テクニックとして、正解を選ぶ方法があるのは知っているし、それで点数を稼ぐことも出来たんだけどね。主人公である「ぼく」の感情として最もふさわしいものは次の内どれか。みたいな問題がよく出題された。
文章をじっくり読んでみて、4つの選択肢を見るとどれもピンとこない場合だってあると思うんだよね。ほら、解釈って人それぞれだったりするじゃない。選択肢の中から最も近いものを選ぶと、大抵の場合は丸をくれるんだけど、どうもスッキリしないのだ。ちょっとぼくの感じているニュアンスとは違うんだよなあ。ってね。
その点で数学は正解がひとつであることが多いから納得感があるというだけなのかもしれない。
昔聞いた笑い話で、国語の読解問題に使われている文章の作者がテストを受けても正解にならなかったって。そういうことだってあるんだから。なんだかなあ。
読解とか解釈を求められる問題は、いわゆるマークシート方式は向いていないんだろうね。マークシートってのは、不正解を探す作業だから。例えば、工業製品やプログラムでバグを出さない、というような能力に対して有効なのじゃないかな。逆に、与えられた事象や事実から、何を読み解いてどう関連付けするかということに関しては、不向き。自由記述のほうが良いだろう。
人数が多いからとか、採点者の労力とか、採点にかかる時間とか。いろんなことを考えるとマークシートになってしまうのかもね。
だけど、そろそろ卒業して良いんじゃないだろうか。そういう「間違い探し」の教育、勉強の仕方から。自らの頭脳と心で読解するとか、解釈するとか、思考するとか。そういう方向へ向きを変えたら良いと思う。今の教育現場がどうなっているのか知らないから、もう動いているのかな。
そういうことを、仕込みをしながらぼんやりと考えてたんだよね。正解というか、価値をはかるKPIを作って、その判断軸で評価する。そんな仕組みが産業革命以降の近代史から引きずっている感覚がある。価値基準の多様化も進んできているというか、多様化が認められる社会になってきている。そんな感覚があるんだよね。それに合わせた仕組みになると良いよね。
ひとりひとりに合わせてカスタマイズしていく。マスの社会から個人個人に合わせていく感じかな。教育に関して言えば、まさに吉田松陰だったり、孔子や釈迦がそうだろうね。説法の内容が相手によって違う。松陰先生なんかは、現代の与えるスタイルの授業ですら無いもんね。
今日も読んでくれてありがとうございます。これを、ぼくらの飲食店に置き換えると、メニューのない店になっちゃいそうだ。カウンター割烹なんかは、かつては個別対応が当たり前だったんだから、近いのかもね。