ワインで最も有名な国といえば、やっぱりフランスですよね。これはもう世界中何処に言っても揺るがないブランド力。最近は国内の消費量が減っているみたいだけど、輸出は相変わらず好調だ。
古代ローマではカエサルに征服されちゃったけど、おかげで世界一のワイン大国になったわけだ。「人間万事塞翁が馬」だね。
フランスが有名になったのはカエサルがブドウを植えたことがきっかけだったことは間違いない。ボルドーやブルゴーニュにブドウを植えたというから、そのまんまワインの有名産地だ。だけど、これを「ブランド化する」という努力をしたのが面白いよね。イタリアではその動きは起こらなかった。
フランスワインを世界的なブランドに押し上げるきっかけを作ったのはナポレオン3世。あのフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの甥っ子だ。このナポレオン3世が王様だったときに、パリ万国博覧会(1855年)が開催された。この4年前にロンドンで万国博覧会が開催されているんだけど、それに対抗して開催したんだって。めっちゃ赤字だったらしいけど。なんかオモロ。イギリスとフランスってずーっとずーっと対抗し続けてるんだよ。なのに大戦になると同じ側にいる。それはさておき。
実はこのパリ万博で革命的な事をやってのける。それが「ワインの格付け」だ。
今では「格付け」という手法が当たり前のようにあるよね。グルメサイトやランキング形式の番組なんかも多い。だけど、この時代は珍しい。お客様側から自然発生的に人気が高まって、それがある程度の期間積み重なることで徐々に「格付け」的なものが醸成されていく。というのが、自然な流れだ。それを、商工会議所の仲買人組合が先に格付けをしておく。そうすることで消費者側も購入する目安にすることが出来るし、価格設定もしやすくなるね。これを命じたのがナポレオン3世。この頃の日本はまだギリギリ江戸時代。幕末ね。そう考えるとブランド形成のために格付けという手法をとったことが革新的だったということがわかりやすいかも。ちなみに、このパリ万博には日本からやってきた渋沢栄一がいた。相当な衝撃だっただろうね。
格付けは1級~5級の5段階。対象はボルドー地区のシャトー。評価をしたのは仲買人組合。
カンタンに解説しておくね。
まずボルドー地区だけを選定したことだ。ここはカエサルがブドウを植えたとこだよね。実はボルドー地区では既にイギリスに多くのワインを輸出していたんだ。四角い感じのフランスの左下にある海に近いところね。陸路でパリに送るよりも、海路でロンドンに送るほうがコストが低いこともある。それに、イギリスでは気候の問題でブドウの栽培が出来ないんだよね。だから当然ワインを飲みたかったら輸入するしか無かったからフランスから輸入していたんだって。まあ、近いしね。当時のヨーロッパではパリは既にオシャレ発信地になっていたから、そのパリがあるフランスのものというのはちょっとした憧れでもあったらしいんだ。現代のような高級ワインという認識ではないけれど、オシャレな輸入品くらいの感覚だったのね。
つまり「産業革命で一気に金持ちになったイギリスに、もっと高くワインを買ってもらおう」という魂胆が透けて見える戦略だったということだ。これ、えげつないけどビジネス戦略としては凄いよ。
次は「シャトー」ね。直訳すると「城」と言う意味の単語なんだけど、ここでは醸造所を指している。この地域のワイン醸造所がめちゃくちゃデカイのよ。お城みたいという感覚でシャトーなんだって。だから格付けされたのはワインの銘柄じゃなくて「会社」なんだ。この会社はワイン醸造としてめっちゃ優秀だよ。ってことね。これが後々のブランド構築に一役買うんだよ。
ワインって、生産年によって値段が違うよね。実はフランスの法律で「ぶどう畑には手を加えない」ことになっている。だから水不足の年でも、そのへんから水を汲んできて畑にまいてはいけない。そのおかげで、苦しい年は苦しいけれど、良いときのプレミア感がヤバいことになるね。この法律と、さっきの「会社を格付けする」ことが組み合わさった結果、良い年の1級シャトーのワインはえげつない金額になるし、良くない年でもそれなりの価格で流通するというブランドを市場に根付かせることになるんだ。
不作でも売れなくなるわけじゃなくて、少し価格が安くなるけど売り切れるくらいのブランド力。そのうえで出来のいい年のワインは馬車1台と交換するレベル。これは、グラフを想像してもらうとわかりやすいんだけど、価格の上下動が高値近辺で起こるということだ。乱高下を防いでいる意味で、とんでもない戦略ということが言えるね。
今日も読んでくれてありがとうございます。長くなってきたので続きはまた明日。それにしても、もしこれを一人で考えついたのなら相当優秀なビジネスパーソンだ。ナポレオン3世一人で考えたわけじゃないけど、金融改革や自由貿易促進なんかの経済政策を打ち出していたから、この頃のフランス中枢は経済にかなり力を入れていたことは間違いないね。