歴史には必ず真実がある。んだろうなあ。
たぶん、誰も理解することが出来ないだろうけれど、確実に真実がある。だろうと思っている。
古い時代の話なんかさ。見聞きしたところで、結局その時代に生きているわけじゃないのだから、感覚を捉えるのは難しいんだよ。
平安寺時代に生きていた貴族たちの世界観。これなんか、ぼくらとはぜんぜん違うはず。神道と仏教とが入り混じっているのだけれど、これを現代の感覚で捉えるとおかしなことになるわけだ。当時の人たちにとって、宗教とは学問であり、社会形成の土台であり、国を守る技術であり、文化であり、真実なのだ。
全てが宗教の土台の上に成り立っている。そのくらいの覚悟で感覚を捉えにいかないと、ぼくらには理解が及ばない。と思うんだよ。
だいたい、言葉だって違うんだよ。ハヒフヘホって音がないんだ。元々はふぁふぃふふぇふぉとか、ぱぴぷぺぽ。もうみんな変な感じだよね。藤原はぷじわらだ。日本の発音がニッポンなのもここから来ているらしい。
なんか変だよね。
変だよねと感じているのは、ぼくらが千年以上過ぎ去った時代に生きているからだ。後の時代になったからこそ、ある程度俯瞰してみることが出来ているようなものだろう。その時代に生きていた人たちが、その時代を完全に俯瞰してみることなんか出来ないだろうしね。
現代だってそうじゃないかな。資本主義とか言って、昔の人達はアホだなあ。とか思われるかもしれないじゃない。人類平等って、人類のことしか考えてなかったんだね。とかさ。もう、無理だもの。そんな数千年も未来の感覚なんか知りようもない。
冒頭で、歴史には必ず真実があると書いた。それは紛れもない事実に思える。だって、いまこの瞬間にぼくがこの文章を書いているということは、紛れもない事実だからだ。
けれども、この事実に正確にアクセスすることは難しい。ぼくが、何を思ってどのような思考を踏んで、急にこんなことを書き出したのかはわかりようがない。いくつもある文章を見て、ある程度の類推をすることは可能だろうけれど、今この瞬間のぼくを知ることにはならない。
歴史研究っていうのは、過去の人々の書籍やら日記やらを読んで、類推するような感じじゃないのかな。いや、憶測で書いちゃったから違ったらごめんなさい。なんとなくだけれど、そんなふうに感じているのよ。ぼくは。
こうなってくると、「厳然たる事実はあるが、誰にも正確なことは理解できない」ということになるじゃない。だとしたら、歴史を学ぶ必要なんかないと言いたいわけじゃない。もうね。それぞれが自由に解釈すればよいのだということになってくるのじゃないかと。ぼくは、そう思っているという話。
現代の日本人が知っている「坂本龍馬」は、司馬遼太郎という作家の解釈でのリョーマだよ。司馬遼太郎には、そういうふうに見えたということ。それが真実ではなくて、多分にフィクションを含んでいるのだろうけれど。だからといって、それが悪いわけじゃないと思うんだよね。
司馬遼太郎なりの坂本龍馬の解釈。これをぼくらが読むことが出来るのだから。いろんな人の解釈を見ていったら良いと思う。
たべものラジオでも、いろんな研究書籍を読むのだけれどね。これこそ絶対の事実なんてものは、実は少ない。著者によって、様々な角度から解釈がなされている。だから、ぼくもまたラジオの中で自由にぼくの解釈を述べる。
おそらくは事実っぽい研究内容は、参考文献のとおりに正確に伝える。なるべくね。それから、専門の研究者の解釈も伝える。なるべくね。そのうえで、ぼくの解釈が中心になるのは、そりゃもうしょうがない。だって、ぼくはぼくでしか無いのだから。他にどうしようもないじゃない。
今日も読んでくれてありがとうございます。人が何かを話す時に、その人なりの解釈で話をすればよいのじゃないかな。むしろ、話し手の解釈が入っていない話なんてのは面白くない。事実の羅列で良いじゃん。いろんな解釈があるから世界は面白いんじゃないかな。