来店されるお客様にはいろんな方がいる。家族、友人、同僚、取引先。そのどれにも属しているようでどれにもピタリとはまらない属性。いろいろである。
食事を共にするということは、自分以外の誰かと時間を共有することだ。もっと細かく言うと、自分のことでも相手のことでもない外のことを共有することになる。
どこかで読んだのだけれど、人間の会話のうち6割は自分のことか誰かの噂話らしい。
食事という行為を介在させることで、お互いに自分のことをしゃべらないでいる時間を作ることが出来るんだよね。ただ、そばにいるだけの時間でもいいし、目の前の食べものの事を話してもいいし、それにまつわる思い出話や関連情報を話しても良い。
ふぐを目の前にして、ふぐの話をする。
ふぐって毒があるのに食べるなんて、最初に食べた人は凄いよねえ。そういえば、日本以外でもふぐって食べられているのかね。どうやら、好奇の目で見られているらしいよ。日本人は変なものを食べてるなあって。そういう意味で言ったら、ソーセージなんて結構凄いかもよ。ブタの腸に豚の肉をミンチにしたものを詰めてるんでしょ。慣れちゃったから気にならないでいるけれど、実は不思議な食べものなんじゃないかな。
そんな具合に、どんどん話を展開していくと会話というのは面白みがある。
大抵の場合、前にもふぐを食べたことがあってね、とか、どこそこのふぐがうまかったという話になる。それはそれで良いのだけれど、体験談には限界があるのだ。それに、あまり興味がないということもある。
出来れば、飛び出た話題のしっぽを捕まえて、違う所にジャンプしていくと良いのだ。
会話を通して相手を知り、それをもって相手と親しくなるのではあるけれど。相手が何者かということを直接的に話しても伝わらないことが多い。
経験や経歴を並べるような直接的な表現をしても面白くはあるけれど、そんなに面白い人生を歩んできた人間は少数だと思うんだ。
どんな話に展開させられるか。そういう話題の展開を見せることは、遠回りのようでいてその人自身を表現していることになるのじゃないだろうか。
映画を一緒に見る。とか。遊園地に行く。とか。旅行に行く。とか。
まあ、共有するものは何でも良いのだ。
ただ、一緒に食事に行くということは、比較的手軽に出来ることなんじゃないかな。手軽に親しくなる機会を作り出せる。
そうそう、一緒に食事に行こうと誘う時。ホントの目的は食べものじゃないことが多いよね。食べものが目的になることもあるけれど、お互いに仲良くなろうとか親睦を深めようとか、まあ一緒に過ごす時間を作る口実なわけだ。食事はその手段というか方便。
そう考えると、料理人としてはちょっと寂しいような気持ちになるかもしれない。
親睦を深めることが目的で、食事が手段だとしたら。目的を成就しやすい環境を整える。これが、ぼくら飲食店の役割なのだと思うんだよね。
そのための料理を考えて、一生懸命に作る。誂える。
今日も読んでくれてありがとうございます。
生命の維持という基本機能を果たしながら、社会的な生命の維持活動にも繋がっている「たべもの」。と考えると、とんでもなく不思議な存在に見えてきた。