エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 体と心と食育と。 2021年12月29日

2021年12月29日

心と体は、相互に作用しあっている。というようなことを、昨日のエッセイで書いた。これについては、もっとわかりやすい例があってね。うまいもんを食べると、幸せになる。

美味しいと、体が嬉しくなる。嬉しくなると、心が幸せになる。豊かになる。そうすると、創造性が働きやすくなって、美味しい料理を食べた人が仕事や生活で活躍する。体と心の作用が行ったり来たりしている感じがするよね。
贅沢な料理ばっかり食べているのはどうかと思うし、それが原因で体調を崩してしまってもしょうがない。という議論もあるけれど、何を持って贅沢な料理とするかによって結論は変わりそうだ。その話をし始めると、どんどん横にずれていくので、それはそれで楽しそうだ。ちょっと横に置いて、いずれ書いてみようかな。

美味しいという感性は、おそらく理性と本能の融合部分。人類が動物的に美味しいと感じる味もあるし、経験として個人が培ったものや、集団として培ってきたものがあって、美味しいと感じる味もある。甘みや旨味は前者だろうし、苦味や辛味は後者かもしれない。
どんな経験をしてきているかで、味覚は変わってくるということについては、すでに多くの学説で立証されている。ざっくりとヨーロッパ社会と日本社会で育った人は、美味しさの基準が違う。これは、人種ではなくて、育った環境が大きく影響しているそうだ。自然環境も影響はあるけれど、食文化が一番大きく影響している。これを発展させた考え方がいわゆる「食育」というやつだ。

食育という表現には、個人的には違和感があるのだけれど、他に適当な言葉が見当たらないからね。しょうがない。食文化って教育で教えるものなんだろうか。育まれるための環境を整えておくくらいのことで良いのではないだろうか。文字の並びから自由に解釈すれば良いのだから、ことさらに異を唱えるつもりもない。ぼくなりの解釈で食育を捉えている。

家庭では、子供の前では食べ物の嫌いを言わないことになっている。基本的にぼくも妻も好き嫌いなく、美味しいものは美味しく頂くのだから問題ない。好きなものと嫌いなものの間にある食材。そういうのもあるよね。これも、なるべく均等に食卓に並べたいと思っている。子どもたちにとってどれが楽しみになるのかは、予測もつかないからだ。今美味しいと感じるものと、将来美味しいと感じるもの。これらに触れるための機会だけは用意しておきたいなと。

基本的な素養として、色んなものを味わってみる心を持っていてほしいと願っている。拡大解釈すれば、対人関係だとか、社会に出てからの問題だとか、そういったものとも当たり前のように対峙できるとでもなればいいけれど。さすがに拡大しすぎかもしれない。この拡大解釈を続けていくと、組み合わせもわかるといいなとも思っている。単体だと苦味の強い野菜であっても、他の食材を合わせて料理に変換することで、その苦味がいいアクセントになるというのが料理だ。これは、チームに置き換えても通じる概念だよね。

子どもも大人も、こうやって料理と接していけば他の概念にも通じていくはずだ。とは思わない。さすがに拡大しすぎでしょう。それはそれとして、身体動作として体感しておくためには良いはずだとも思っている。なんかわからないけれど、すでに経験している感覚。そういう体験を予め積んでおくというのは便利だよ。
本人も便利だし、料理や食材を例え話に使うぼくにとっても結構便利だ。

今日も読んでくれてありがとうございます。料理屋が書いているエッセイなのに、どうも食べ物に関する話が少ない。ちゃんと料理に関する話も書けよって。かといって、ラジオのネタをここで全部公開するわけにもいかないしね。まあ、どう思われたところで好きなように書くんだけどさ。今日はギリギリ食の話。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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