写実絵画と抽象絵画があるよね。写実絵画を見て「写真みたいだね」という感想はなんだか違うよね。だって、それは表現したものを表現するための技術の部分であって、作家が表現したい部分をなにも捉えていないわけだ。
写真そっくりに写し取りたいだけなら、写真を撮ればいい。
実は、写実の方が読み取りが難しくなるのかもしれない。何を表現したいのかを感じるには、まず表現したいものがそこにあるんだということを認識していないと、もうどうしようもない。あるはずだ。の前提が必要だってことだ。
でね。実は高度な技術がその認識を邪魔するのじゃないかしら。もちろん見る側のリテラシーが高ければ問題ないんだけど、そうじゃない場合はついつい高度な技術に意識を奪われてしまうから。
これが、抽象画だとそうはいかない。クロード・モネとかなら良いけれど、ロスコとかポロックあたりになるともはやなんだかわからない。
このなんだかわからないけれど「スゲーな」っていうのがポイントなんじゃないだろうか。だって、なんだかわからないものって理解したくなるじゃない。きっとここには何かがあるはずだ。と自発的な理解を促すことになる。
作家自身が表現したいこととは合致しないかもしれないけれど、見るほうが勝手に考え出す。そういう側面があるように思える。
こういうのって、けっこう怖いよね。
表現する時に、伝わらない可能性が高い。受け取る人が、受け取ることを諦めちゃうかもしれないし、スルーするかもしれない。間違った解釈が広がるかもしれない。
最近の映画だと、三谷幸喜監督なんかがこういう手放し方をする。説明しないんだ。わかりやすくしようとするなら、しれっとセリフに混ぜ込むくらいのことは出来るだろうけれど、しない。三谷監督はお客さんを信じ切っているからって言い放ったけれど、これはスゴイことだなと思うよ。
モネもロスコもポロックも、もちろんピカソも超有名アーティストだ。けれども、望んでアートを鑑賞する人は、映画のそれとはわけが違う。ある程度リテラシーの高い人か、そういう世界があるんだという理解のある人がほとんどだろう。映画はもっと大衆的。特に三谷幸喜監督が手掛ける映画は沢山の人の注目を浴びるのだから、見る人も千差万別だろうしね。
そういう中で、考える余白を相手に渡しちゃうの。これって相当勇気がいるんじゃないかしら。
ぼくらが話をする時は、この加減が難しいのだよね。基本的にプレゼンテーションやスピーチは解釈にずれが発生しないようにする。同一の解釈を届けることをゴールに設定しているからだ。そういうゲームルールでのスピーチは写実的にするか、印象派の絵くらい。
もしかしたら、スピーチでは抽象絵画のように三谷幸喜監督のように、解釈を相手に渡しちゃうのでも良いのかもしれないなあ。感想がバラバラになって面白い。それぞれが良いと思うように解釈したら良いって。そういうことが出来る状況も少ないのかもしれないけれどね。
考えたら、教育もそうなのかもしれない。解釈を生徒に渡してしまう。生徒は自分で考えて解釈しなくちゃいけないってことになるから大変だろうけれどね。だからこそ、自分で考えるようになるのではないだろうか。そうだ。そしたら、教わったことの外側に新しい発見を見つけることが出来るかもしれないなあ。
今日も読んでくれてありがとうございます。ぼくの仕事上のプレゼンは印象派的かな。必要なところだけ写実表現。最近の講話は抽象絵画に近づいてる。受講者が誤解するくらいの余白があるようにね。