観光産業ってのは、よくよく考えると不思議な産業だ。観光という言葉自体が、変な手垢が付いちゃっているから、純粋な意味で考えづらいんだけどね。基本的に何も生産していない産業というのが、観光産業なのだ。産業って産む業なわけだよね。
近代以降の産業というのは、なにかの材料を加工して別のものに作り変える工業が中心になってきた。それ以前は、自然の中から採集する漁業や採集。その後には、採集する対象が育つための環境を整える農業や養殖。この範疇に収まらないのは、あるのかな。飲食店も絵描きも、基本的には何かを加工して別のものに作り変えているから広義での工業に属してしまうのかもしれない。工業というと違和感があるな。ま、とにかく作り変え産業だ。
音楽は、どれにも入らないな。消えるからか?なんだろう。芝居もそうだね。あ、学問もそうだ。物質的なものは何も生み出していない。そうだ。詩もそうだ。吟遊詩人なんて、何も作り出していないんだよね。モノは。生み出しているのは、感情。そう心の動きを生み出しているのだ。
本という物質は出版業者が生産する。物書きは、言葉を操って心を動かしている。本なんてのは、音楽でいうと楽譜みたいなものか。
観光産業ってなんだろう。ってことを考えるには、観光じゃない産業を眺めて見るところから始めると良いかな。そう思って、色々と整理してみた。全部の業種を書き並べたら、いろんな分類ができてもっと面白いかもしれない。解像度だって上がりそうだ。けど、面倒なのでこの辺にしとくか。
観光というのは、音楽とかお芝居とか、詩とか学問と同じグループに入れてしまっても問題ないのかな。どうなんだろう。そもそもだけどさ。観光って何するの?旅行ってなにするの?史跡めぐりは観光の一つではあるけれど、観光は史跡めぐりという等式は成り立たないよね。
旅に出たら、ただウロウロ歩き、見聞きし、その土地のものを食い酒を飲む。旅先で友人の一人でも出来たら、最高だ。というのは、僕の好きな小説「一夢庵風流記」の中の一節だ。細かい言い回しまではおぼえていないけれどね。主人公の前田慶次郎が依頼を受けて朝鮮の視察に出かけるシーン。朝鮮出兵の前の時代で、スパイみたいな仕事だったと思う。石田三成あたりからすれば、もっとちゃんと細部の情報を調べてこいよって言いたいだろうけれどね。そんなことはしない。
その国のことを知りたければ、ウロウロ歩いて、いろいろ見聞きして、食べて飲んで生活に入り込んで、現地の人と交流するのだ。ってさ。なんだか、この部分が妙に記憶に残っているんだよね。この小説を読んだのは、20年も前のことだ。
視察出はないけれど、観光というのは前田慶次郎の言う事に近いんじゃないかと思うんだ。決して目玉が無くちゃいけないわけじゃない。その土地に行って、その土地の生活に触れる。それだけのことなんだろうな。ただ、出かける前の時点では目標とするモノが必要なんだ。なんというかな。友達と話したいだけなのに、食事に行くっていう手段を目的化しているような感じ。○○を見に行くという目的を設定しているのだけれど、ホントの目的はそれじゃない。みたいな感じかな。
だからね。商店街だとか住宅だとか、生活習慣が見えないところは面白みが薄いのじゃないかと思うんだ。この土地の人は何を食べてるんだろうとかさ。だから、海外の朝市が面白いと思うんじゃないかな。三丁目の夕日に出てくるような商店街が現役の町だったら、それだけで面白そうじゃん。演出しないほうがいい。港町に行ったら、リアルな水揚げを見るだけでワクワクしたりするんじゃないかな。と考えるのはぼくだけだろうか。
今日も読んでくれてありがとうございます。見せる部分と生活空間を分けすぎちゃってる。生活空間である住居群は日本全国どこにでもある住宅地だ。買い物に出かける場所も、どこにでもあるスーパー。三井物産やイオングループの商業施設。そりゃ面白くないよね。お城の周辺を見たら、もう無いんだよ。ウロウロするところがさ。