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今日のエッセイ 古典と呼ばれる本って何が凄いの? 2021年11月14日

2021年11月14日

最近、世阿弥の風姿花伝を読み返しているんですよ。この本に出会ったのは、もうずいぶんと前のことなんだけれどね。改めて読み返してみると、以前よりも奥深さを感じている。もちろん、色褪せることなんかなにもない。そりゃそうだ。600年前から色褪せずに残っているものが、ほんの20年程度で色褪せるわけがない。

古典の名著は世界中にある。何が凄いって、数百年数千年たっても消えていかない。これまでの間にどれだけたくさんの書籍が出版されただろうか。その途方も無い数の書籍たちと戦って勝ち残ったんだから、そういう意味で凄いことよね。つまらない書籍なら、とっくに消えていっているだろうし。

社会的な背景や歴史の重みや、いろんな条件が重なった上でのことだから、読みつがれる古典が必ずしも素晴らしいわけではないのかもしれない。かもしれないけれど、長い期間読みつがれてきたということ自体に、何かの意味を感じてしまうんだよなあ。
ホントは意味なんかないのかもしれない。だけど、残ったものには残るだけの理由があって、消えた理由があるから消えていった。そんなふうには思うよね。

風姿花伝なんか、ぼくらが当たり前だと思っていることや、数十年かけてたどり着いた結論が、もう600年前には言語化されている。もっと若い頃にしっかりと理解していれば、己の経験という少ないサンプルだけで思考しなくても良かったわけだ。知ったことを実践で試して、確認するという作業だけすればいい。それで、かなりの時間を短縮することが出来るもんね。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
これ、割と好きな言葉なんだ。第一次世界大戦の少し前の時代に活躍した、ビスマルクというドイツ帝国の初代宰相の言葉だ。解釈を間違えると、大変なことになるセリフではあるのだけどね。
賢い人は経験なんかしないで、勉強すればわかる。みたいな話ではない。この解釈をすると、行動しないほうが良いみたいなことになって、机上の空論だけを語らう嫌なやつになっちゃう。そうじゃない。
学んで、考えて、答えを導く。こういう言葉を使うと学問のことのように思うけれどそうでもない。

例えば、「君の言っているプロジェクトは、だめだ。なぜなら、私のやったがうまくいかなかったからだ」という上司がいたとする。この人が言っているのは、1つの事例だけのことだ。1万人が試してみて、この人はうまく出来なかったけれど、9000人がうまくいっているのであればどうだろう。ただやり方が悪かっただけじゃん。ということになるよね。分母1で判断するな。という表現をすることもあるよね。
当たり前だけど、もっとサンプル数を増やさないと、変てこりんな判断しちゃう。

歴史ってのは、まったくもってサンプルの宝庫。人間一人が経験するくらいじゃとても補えないくらいのサンプルが無限に転がっているわけだ。そのなかから有名な人や事例だけをピックアップするだけでも相当な数になる。そうしたら、分母が圧倒的に増える。
鉄血宰相ビスマルクはそういうことを言っているんだよね。ビスマルクについては、まあ解説しないので調べてくださいな。ぼくの個人的な印象では、天才的な外交でヨーロッパ社会の均衡を保った人かな。

歴史という無数のサンプルの中から、語り継がれているのだから、その人物や事例にはなにかしらの意味や重みがあるはずだ。という姿勢で眺めていくと良いのかな。

料理だって、消えていったモノもたくさんあるんだよね。最近では観光のために復活させている事例も見られるんだけど、消えた理由も見たほうがいいよね。現代人にとって美味しくないってこともあるからさ。逆に定番として残っている料理も、その理由があるんだもの。

今日も読んでくれてありがとうございます。食べ物をテーマにして歴史や、それぞれの社会背景を眺めていくと、今につながる料理や食材の重みがわかるんじゃないかと思っているよ。そんなわけでポッドキャスト番組「たべものラジオ」をやっているので、聞いてみてください。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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